凶作に備えて米穀を蓄えておく倉庫。中国や朝鮮,日本で行われた。中国の義倉は,まず均田制とともに発達し,租税同様に徴収され,積み立てられた米穀を,飢饉のさい無償で配給した。北斉のとき,均田農民1人につき5斗を供出させ,州県に蓄えて非常時に備えたのが始まりで,のちに義倉・社倉と呼ばれるようになった(584)が,農民の餓死や逃亡を防ぐのが真のねらいであった。隋では社(村落)ごとに設置され義倉米は富に応じて徴収されることが法制化された。唐では農地1畝につき2升の義倉米を徴収し,商人など農地をもたぬ者から九等戸の別に従って5石から5斗まで納めさせた。8世紀は6000万石以上の義倉米を集めたという。このころまでの義倉は,凶年に貧民に種子や食糧を配給するという社会保障的な目的をもっていたが,重い負担であるうえ,管理する側の悪用流用が多く,均田制の崩壊とともに消滅した。
ついで,唐中期,憲宗のとき常平義倉が置かれ,農民から1畝につき2升の粟を徴収して非常に備え(義倉の機能),同時に秋に米穀を安く買い春以後に高く売り出した(常平倉の機能)。宋代でもこの傾向が進み,飢饉対策よりも需給関係の調整に重点がおかれた。宋は太祖のとき各県に義倉を置いたが,制度の改変から存廃常ならず,内容もしばしば変更されはしたけれども,春に現物を貸し付け秋に利息をつけて返させるという賑貸(しんたい)を原則とした。一方,義倉は常平倉(物価調節のため米の出納を行う)と同じように運用されたし,義倉米は軍用に供せられることもあった。最後に,明・清の義倉は,義倉米が租金同様に徴収されることはなくなり,民間有力者の寄付によって集められた。ギルド商人らが義倉を維持し,名目的に官がこれを支援した。都市に義倉,農村に社倉が設けられ,通常は賑貸を行い,非常時に無償の配給をした。運用の資本が義(仲間の相互扶助)によって集積されたため義倉と呼ばれた。
執筆者:衣川 強
日本では大宝令において中国の制度が採用された。令の規定によると一位以下百姓雑色人にいたる広い層を徴収の対象とし,各戸を上々戸から下々戸までの九等戸に分け,等級別に定められた量の粟または稲穀,麦,豆を納めさせた。ところが下々戸まで負担させるのは困窮者救済の精神に合わないとして706年(慶雲3)に,以後は中々戸以上から徴収するように改め,715年(霊亀1)には九等戸に分ける資産の基準額を改訂し,負担すべき戸数の増加を図った。8世紀中葉の実施状況が知られる越前国や安房国の義倉帳によると,令の規定どおり下々戸まで負担させているが,それでも負担戸数は全戸数の1~2割程度で,残りの約8~9割までが下々戸にも入らない等外戸であった。一方,困窮者への支給については明確な規定がみえず,受給者数や支給物の量も少なく,救済面での実効性はあまり評価できない。これは負担可能な戸数が相対的に少ないことに加え,貴族層など負担額の多いクラスの未進が増え,支給物の十分な備蓄ができなかったことによると考えられる。義倉の理念はすぐれていたが,本来の機能を十分に果たしえないまま律令制の衰微とともに廃絶された。
→常平倉 →賑給(しんごう)
執筆者:舟尾 好正 近世には,義倉のもとの意味にかかわらず備荒貯穀制度として義倉・社倉が論じられ,天領の倉敷をはじめとして米沢,弘前,津などの諸藩で制度がたてられた。
執筆者:伊藤 好一
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中国で凶作の際、農民に食料と種子を支給するための貯蔵倉。社倉ともよばれた。隋(ずい)代の585年、25戸よりなる社に設けられ、社司(村役人)の管理のもとに、貧富の程度によって粟麦(ぞくばく)を納めさせたが、隋末に弛廃(しはい)した。唐初はこれに倣おうとし、628年、改めて1畝(ほ)(約544平方メートル)当り粟麦または粳稲(こうとう)(うるち)2升を徴する一方、田のない商人からも多くは応分の粟を出させた。のち、しだいに税化するにつれて州県に置かれて官吏がつかさどるようになり、財政不足のおりに流用され、ことに安史の乱に荒廃した。しかし憲宗(在位805~820)のとき復活が試みられた。宋(そう)代には両税法により税額1石につき1斗を課し、凶作のとき、種、食を給し、ついで貸付けも行った。しかし、商業都市が発達するにつれて、州・県・鎮など都市の近くのものが多くなり、県倉に納めることも許されたので、農村にはかえって少なくなり、農民の利用に不便となった。したがって義倉本来の機能よりは、都市近傍のもの、または都市民への貸付けが多くなり、北宋には置廃を繰り返した。遼(りょう)や元(げん)もこれを置いたが名のみで、金(きん)は置かず、明(みん)は社倉のみであった。清(しん)は初期から置き、公選の有力者や商人に運営させ、民間の寄付その他によったが、太平天国の乱に弛廃し、復活が試みられたが実効はあがらなかった。
[青山定雄]
日本では令制(りょうせい)下の各戸を貧富の差によって9等に分け、その等級に応じて一定額の粟(稲・麦・豆でもよい)を納めさせ、保管運用する制度。本来は凶作に備えて食糧を貯蓄し、必要に応じて困窮者に給付するものであったが、実際には毎年賦課される付加税となった。しかし奈良時代の農村で納税者の中核となるべき富裕者はごく少数で、大多数は救貧の対象となる貧窮者によって成り立っており、たとえば、現存する750年(天平勝宝2)の安房(あわ)国(千葉県)義倉帳によると、9等の基準にすら該当しない等外戸が全体の約80%を占めるごとくで、そのため、義倉の収支はつねに大幅な赤字とならざるをえず、平安時代になるとついに廃絶した。この制度は、江戸時代になってふたたび幕府や諸藩の備荒貯蓄として採用され、社倉・常平倉とともに三倉の一として復活した。
[平田耿二]
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1古代,賦役令(ぶやくりょう)に規定された国営の備荒貯蓄制度。親王をのぞくすべての良民の戸を資財高によって9等分し,等級に応じて長期保存に適した粟などの穀物を納入させた。706年(慶雲3)中下戸以下は納入を免除されたが,のちに9等戸の区分基準が見直され増徴が図られた。8世紀中頃の義倉帳では下下戸まで徴収している(ただし多数は等外戸)。飢饉による賑給(しんごう)の際には,租穀ではなく義倉穀が用いられることが多かったらしい。
2江戸時代の備荒貯蓄のための施設。常平(じょうへい)倉・社倉とともに三倉の一つで,小規模なものが多かった。富裕者の義捐(ぎえん)や農民からの徴収による穀物を貯穀し,幕藩領主が管理し,飢饉・災害などの際に供出した。津・弘前・米沢諸藩などの義倉が著名。
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…このほか米価対策として行われた囲米として,(1)幕領年貢収納量がピークに達した宝暦年間(1751‐64)に,諸大名にたいし1万石につき籾1000俵の囲置きを命じた例,(2)寛政(1789‐1801)初年に幕領農村に郷倉を設置したり,江戸・大坂に籾蔵を建てるなどして,農民・町人に貯籾を命じ,凶作時の夫食(ぶじき)・救米の備えとした例,(3)低米価に悩んだ文化年間(1804‐18)に,大坂の豪商に囲米を命じ米価引上げを図った例などがある。また備荒貯穀として独自な囲米制度を採用している藩も多く,水戸藩の常平倉,会津藩の社倉,米沢藩の義倉などは著名である。【大口 勇次郎】。…
…〈還上〉とも言う。〈還穀〉の制度化は高麗初期(10世紀)に〈義倉〉を配置したことに始まり,李朝初期(15世紀)の〈社倉〉〈常平倉〉設置で全国的に完成した。しかしこれは凶年のみの臨時措置で,常設化されたのは1626年の常平・賑恤(しんじゆつ)庁設置からである。…
…義はほかに公共性や慈善性を意味する場合がある。〈義倉〉(飢饉用の公共の米倉),〈義舎〉(旅人のための公共宿舎),〈義冢(ぎちよう)〉(無縁仏のための共同墓地),〈義荘〉(一族の貧者のための田地)などの語がそれをあらわす。また,〈義父(養父)〉,〈義児(養子)〉,〈義兄弟〉のような言葉もある。…
…ムギはイネや他の雑穀の収穫後播種し,イネや他の雑穀の端境期に入る旧暦4月ごろに収穫が行われ,イネやそれとほぼ同じ季節に成長過程をもつ雑穀がなんらかの気候不順によって打撃をうけても,その影響は受けなくてすむことから,救荒作物としてきわめて積極的役割を演じうる存在であった。アワは長期間の保存が可能なため,律令制度では義倉の基本的蓄えとされていた。710年代には夏作のアワと冬作のムギを兼ね植えることが奨励されているが,以後アワについては租税納入上,他の穀物に対する代替率の面で優遇策がとられ,ムギについては,飢饉が予想される際などに,青苗の段階で馬の飼料として売るのを禁止し,人の食用に確保しようとするなどの政策がとられている。…
… 凶作に対する方策は,時代に応じて種々とられてきた。奈良時代から平安時代初期における穀物備蓄用の義倉,江戸時代の貯穀制度の発達はよく知られている。国,自治体,地元農家などの努力による大規模灌漑工事は,日本の干ばつによる凶作をほとんど消滅させた。…
…中国や朝鮮,日本で凶年など非常のときに窮境を救うための米などを貯蔵しておく米倉。隋代にはじまった義倉は村鎮に設置され,無償で配給されたが,管理は一種の自治団体である社が行ったので,別に社倉と呼ばれた。宋代になって最も発達し,村落が管理する社倉と州県官が管理する義倉とがはっきり区別された。…
※「義倉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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