物価の調節や農民救済のために設けられた官倉。政府資本で穀価の安いときに買い入れて常平倉に貯蔵し,高いときに市価より安く放出して穀価の安定をはかり,あわせて差額を国庫収入とした。
常平倉の名は前漢宣帝のとき(前54年)にみえるが,これは軍糧の貯蔵にすぎない。物価安定策としては西晋(265-316)に始まり,南北朝・隋・唐を通して置かれているが消長がある。唐代,806年(元和1),常平倉は改組されて常平と義倉,すなわち需給調整と農民の賑済の両機能を果たした。唐末の混乱でいったん消滅,北宋,992年(淳化3),首都開封近辺の豊作を契機に社会政策として復活した。真宗(998-1022)のときには全国各州県に置かれたが,軍糧へ流用されることが多かった。王安石の新法の一つ青苗法は,常平倉に蓄えられている銭米を資本として農民に低利の貸付けを行ったもの。明・清まで存続したが不正流用されて本来の意味はうすれ,農民救済は義倉や社倉に移った。
執筆者:柳田 節子
日本では奈良時代の759年(天平宝字3)に当時政権を握っていた藤原仲麻呂の建議により設置された。仲麻呂は唐の制度を多く採用したが,庶民の苦しみを軽減するための施策にも意欲的であった。平準署(へいじゆんしよ),常平倉の設置もその例である。設置時期からすると橘奈良麻呂の変による民心の不安を鎮める意図もあったと思われる。常平倉には諸国の公廨稲(くがいとう)の一部をあて,米の安い時期に買い入れて備蓄し,高値のときには市価より安く売り出して米価の調節を図り,得られた利益で京へ調庸を運んできた農民(運脚(うんきやく))が帰郷する際の飢えを救うこととした。平準署を置いて常平倉を管掌したが,意図されたようには機能せず,仲麻呂が没して数年後の771年(宝亀2)に平準署が廃止された。常平倉も同じころに廃止されたと思われる。平安時代に京中の米価を安定させるために常平所や常平司が置かれた時期もあったが,たいした効果もなく衰退していったとみられる。
執筆者:舟尾 好正 近世中期以降,米価調節や救恤(きゆうじゆつ)問題が論じられるときには,義倉,社倉とともにこの制度が紹介され,その設置が主張された。水戸,会津,薩摩などの藩でこれが施行されたが,明治政府は,1878年から82年まで,大蔵省に常平局を設けて,この制度を行っている。
執筆者:伊藤 好一
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奈良・平安時代および江戸時代に、主として米の価格を調節するために設けられた備荒貯穀の倉庫。元来は古代中国で発達したもので、豊年で米価が安いときには買い入れて貯蓄し、凶年で米価が高いときにはこれを放出して、人民の生活を安定させるという常平法によって設けられたもの。
[平田耿二]
わが国では藤原仲麻呂(なかまろ)政権下の759年(天平宝字3)、諸国の公廨(くがい)(官稲)を割いて設置し、そこから得られる利によって、京で病や飢えに苦しむ運脚(うんきゃく)(調庸(ちょうよう)を都に運ぶ役夫)の食糧を補給した。同時に全国の米価を比較するために中央に平準署(へいじゅんしょ)が設けられたが、早くも771年(宝亀2)に廃止され、常平倉も同じく停廃されたと考えられる。しかし平安時代になると、京の米価調節のために常平所(じょうへいじょ)として、この制度はしばしば再興されたが、実効はあまりなかったようである。のち江戸時代にも、社倉(しゃそう)・義倉(ぎそう)とともに三倉の一つとして、土佐、会津、薩摩(さつま)、水戸、松江の諸藩で行われたが、逆に農民負担の過重により一揆(いっき)の原因ともなった。
[平田耿二]
中国で物価調節や農民救済の目的で設けられた官倉。穀物の価格は豊凶によって変動が大きく、農民を苦しめたので、政府資本で穀価の安いときに買い入れて常平倉に貯蔵し、高いときに市価より安く放出し、かつ、その間の差額利潤を図った。常平倉の名は、前漢宣帝の時代にみえるが、物価安定策としては晋(しん)の268年に始まる。以後消長はあるが、南北朝、隋(ずい)、唐と設置された。宋(そう)の1006年、辺境を除く各州県に置かれた。王安石の青苗(せいびょう)法は、常平倉に蓄えられている銭穀を貸付資本に活用したものである。新法廃止後は旧制に戻り、元(げん)、明(みん)にも設置されてはいたが、あまり活用されず、農民救済は義倉、社倉などによった。清(しん)では順治(じゅんち)年間(1644~61)各州県に置かれたが、不正流用が多く、本来の機能は失われた。朝鮮でも高麗(こうらい)の993年に同様の目的で設置されたが、以後、廃置は定まらなかった。
[柳田節子]
1奈良時代,帰路にある運脚の困窮を救済したり,京中の穀物価格を調節するために設けられた官倉。唐の制度にならい,759年(天平宝字3)に恵美押勝(えみのおしかつ)によって創設された。常平とは穀価を常に平準にするという意味。諸国公廨稲(くげとう)を財源として京の左右平準署が管理した。平準署は771年(宝亀2)に廃止されるが,9~10世紀には常平所や穀倉院が米価調節の任務を請け負った。
2江戸時代,米価の調節を目的に設置された米倉。義倉(ぎそう)・社倉とともに三倉の一つ。米が豊富で安価なときに貯穀し,不足・高騰の際に安く売り払った。また飢饉・災害の備荒貯蓄ともなった。貝原益軒・太宰春台(だざいしゅんだい)らにより有益性が主張された。会津・水戸・高知・鹿児島諸藩などで設置されたものが著名である。
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…このほか米価対策として行われた囲米として,(1)幕領年貢収納量がピークに達した宝暦年間(1751‐64)に,諸大名にたいし1万石につき籾1000俵の囲置きを命じた例,(2)寛政(1789‐1801)初年に幕領農村に郷倉を設置したり,江戸・大坂に籾蔵を建てるなどして,農民・町人に貯籾を命じ,凶作時の夫食(ぶじき)・救米の備えとした例,(3)低米価に悩んだ文化年間(1804‐18)に,大坂の豪商に囲米を命じ米価引上げを図った例などがある。また備荒貯穀として独自な囲米制度を採用している藩も多く,水戸藩の常平倉,会津藩の社倉,米沢藩の義倉などは著名である。【大口 勇次郎】。…
…そのために平常からの備荒貯蓄が必要であった。各国にあって備荒のみを目的とする貯穀としては,大宝令によって,戸の貧富に応じてアワなどの穀物を規定量徴収するように定められた義倉や,759年(天平宝字3)諸国の運脚(調・庸を都まで徒歩で運ぶ人夫)の飢えをいやすために諸国に設置された常平倉(じようへいそう)の制などがあったが,その機能する範囲は小さく,むしろ各国の財源たる正税の方が一般的に機能した。正税を蓄える正倉には,平常の公出挙などに用いる動倉と非常用の不動倉があり,後者は国郡司が被害実態を申告して,太政官の命によって開く定めであった。…
…奈良時代に諸国の常平倉(じようへいそう)を管理するために中央に置かれた物価を調節する役所。常平倉は豊年や秋期の米価の安い時期に購入して蓄え,米価が高騰すると市価より安く放出して米価を安定させ,得られた利潤で京より帰る運脚夫の飢えを救うために設けられた。…
※「常平倉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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