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社倉 しゃそう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

社倉
しゃそう

中国で農村におかれ,飢饉などのとき農民を救済するため平常から穀物を貯蔵しておいた。隋代に初めて義倉の別名として現れた。南宋代朱熹 (→朱子 ) の社倉は有名。素行不良者や衣食住に困らぬ者などを除いた農民の任意加入で,加入者は 10家を1甲とし,5甲に1人の社首をおき,社倉の運営にあたった。名簿は官に報告し,貸出しや返済には官が立会い,不正のないようにした。朱熹の社倉は「飢饉時に食を欠く者なし」といわれる成功をみ,のち朱熹は孝宗に社倉法を献じ,これを全国に行うことになった。日本では,江戸時代に設けられ,庶民がそれぞれ自己の収入,財産相応に収入の一部を出して貯蔵し,貸与,増殖など自治的に管理した。義倉,常平倉とともに三倉といわれた。山崎闇斎によって紹介されたという。明暦1 (1655) 年,保科正之が会津藩内で実施したのが最初とされ,広島,岡山その他の藩でも漸次行われ,江戸時代中期以降著しく進展し,明治の廃藩置県に及び,その後も和歌山県,福岡県その他に存続した。

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デジタル大辞泉の解説

しゃ‐そう〔‐サウ〕【社倉】

中国で、凶作端境期に備えて、官民共同管理で社(集落)に設けた穀物倉庫文帝が各社に置かせた義倉に始まる。代にはベトナム・朝鮮・日本にも導入され、江戸時代に広島・岡山などの諸藩で実施された。

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百科事典マイペディアの解説

社倉【しゃそう】

日本や中国・朝鮮で凶作(きょうさく)窮境を救うための米などを貯蔵していた倉。律令時代からある義倉,常平倉とともに三倉と称され,江戸時代に制度化された。農民の持高に応じて米穀を徴し,各居村内にたくわえられた。
→関連項目飢饉常平倉

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世界大百科事典 第2版の解説

しゃそう【社倉 shè cāng】

中国や朝鮮,日本で凶年など非常のときに窮境を救うための米などを貯蔵しておく米倉。隋代にはじまった義倉は村鎮に設置され,無償で配給されたが,管理は一種の自治団体である社が行ったので,別に社倉と呼ばれた。宋代になって最も発達し,村落が管理する社倉と州県官が管理する義倉とがはっきり区別された。困窮農民の救済を目的とした社倉は,南宋時代になって朱熹(子)の社倉法に代表されるように極盛期を迎えた。常平倉の官米を農民に分配し,秋に2割の利息をつけて返還させ,これを社倉に貯蔵して以後,独立運営を行い,夏に穀物を貧農に貸し冬に回収した。

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大辞林 第三版の解説

しゃそう【社倉】

飢饉などの際の窮民救済のために設けられた米や麦などの貯蔵庫。隋の義倉ぎそうに始まり、南宋の朱熹しゆきの社倉法に至り完備、明・清代にも継承された。日本でも享保の飢饉以降諸藩に普及。 → 義倉常平倉

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

社倉
しゃそう

おもに中国で非常米などを貯蔵した倉。隋(ずい)・唐(とう)時代には義倉(ぎそう)の別名として用いられたが、宋(そう)代以後義倉が変化するにつれて郷村に置かれ、自治的に運営され、凶作や春の端境(はざかい)期に貸与した穀物倉をさした。北宋の神宗(在位1067~85)の初めに社(村)に社倉を設けようとしたが、王安石が反対して青苗(せいびょう)法を行った。南宋になり1168年建寧(けんねい)府(福建省建甌(けんおう)県)の大飢饉(ききん)に、朱子(朱熹(しゅき))が官粟(かんぞく)を得て民を救い、秋、返済したのを民家にとどめ、年1回貸し付け、飢饉の年には利息を割引あるいは免除した。ついで71年知府の援助銭で社倉3をつくり、利息の穀物で返済したあとは無料で貸与した。その後、細目を加えたいわゆる朱子の社倉法では、希望すれば州県の常平米(物価調節米)を貸し、あるいは富豪の寄付によって石当り2斗の利息をとり、在住の有力者と官吏に自治的に運営させた。朱子が浙東(せっとう)常平茶塩に任命されたおり、その上奏によって1181年末には両浙(せつ)(現在の浙江省と、揚子江(ようすこう)以南の江蘇(こうそ)省)を中心に南方で社倉が設けられたが、有力者が実権を握って弊害が生まれ、小農民にかならずしも有効でなかった。明(みん)代には朝鮮、日本、ベトナムにも行われ、清(しん)代には土地の富豪、有力者の寄付により、社長、社副を公選して運営させ、かなり多く設けられたが、太平天国の乱に荒廃したものが多かった。[青山定雄]
『曽我部静雄著『宋代政経史の研究』(1974・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の社倉の言及

【囲米】より

…このほか米価対策として行われた囲米として,(1)幕領年貢収納量がピークに達した宝暦年間(1751‐64)に,諸大名にたいし1万石につき籾1000俵の囲置きを命じた例,(2)寛政(1789‐1801)初年に幕領農村に郷倉を設置したり,江戸・大坂に籾蔵を建てるなどして,農民・町人に貯籾を命じ,凶作時の夫食(ぶじき)・救米の備えとした例,(3)低米価に悩んだ文化年間(1804‐18)に,大坂の豪商に囲米を命じ米価引上げを図った例などがある。また備荒貯穀として独自な囲米制度を採用している藩も多く,水戸藩の常平倉,会津藩の社倉,米沢藩の義倉などは著名である。【大口 勇次郎】。…

【還穀】より

…〈還上〉とも言う。〈還穀〉の制度化は高麗初期(10世紀)に〈義倉〉を配置したことに始まり,李朝初期(15世紀)の〈社倉〉〈常平倉〉設置で全国的に完成した。しかしこれは凶年のみの臨時措置で,常設化されたのは1626年の常平・賑恤(しんじゆつ)庁設置からである。…

【義倉】より

…中国の義倉は,まず均田制とともに発達し,租税同様に徴収され,積み立てられた米穀を,飢饉のさい無償で配給した。北斉のとき,均田農民1人につき5斗を供出させ,州県に蓄えて非常時に備えたのが始まりで,のちに義倉・社倉と呼ばれるようになった(584)が,農民の餓死や逃亡を防ぐのが真のねらいであった。隋では社(村落)ごとに設置され義倉米は富に応じて徴収されることが法制化された。…

【七分積金】より

…この結果,七分積金を基礎とする江戸の都市改革は,都市下層社会に対する一個の〈社会政策〉を軸として展開することになった。 江戸町会所の第1の機能は,江戸町方全体の社倉=備荒貯穀として,飢饉や災害時における窮民への独自の〈御救(おすくい)〉を実施することにあった。向柳原をはじめ深川新大橋向や小菅などに60棟以上の籾蔵が建設されていき,文化・文政(1804‐30)期には13万~17万石,幕末には数十万石規模の籾が貯蔵されたのである。…

※「社倉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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