肥料工業(読み)ひりょうこうぎょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「肥料工業」の意味・わかりやすい解説

肥料工業
ひりょうこうぎょう

農業や園芸用で使用する有機質肥料と化学肥料(無機質肥料)を生産する工業。有機質肥料には魚肥(魚油の搾りかす)、菜種油かす、大豆かす、米糠(こめぬか)、骨粉、鶏糞(けいふん)などがあるが、かつてその生産の中心であった魚肥が、ニシンやイワシなどの漁業資源の減少で大幅に減退、農家の自給肥料(堆肥(たいひ)、厩肥(きゅうひ)、下肥(しもごえ)、緑肥、草木灰など)とともに比重は著しく低下し、通常肥料といえば化学肥料をさすようになった。この成分である、窒素(N)、リン(P)、カリウム(K)は肥料の3要素といわれ、1要素のみで製造されているものを「単味肥料」(単肥)という。窒素単肥には硫安(硫酸アンモニウム)、尿素、塩安(塩化アンモニウム)、石灰窒素、硝安(硝酸アンモニウム)などが、リン酸(リンは肥料効果を高めるため、リンと酸素の化合物として供給される)単肥には過リン酸石灰溶成リン肥、重焼リン、苦土過リン酸石灰などがあり、カリ肥料(カリはカリウムの工業的通称名)には塩化カリウム硫酸カリウムなどがある。2要素以上含むものを「複合肥料」といい、これには、成分を化学的操作によって製造した化成肥料と、単に混和した配合肥料がある。化成肥料のなかの高度化成肥料は3要素の合計成分量が30%以上のもの、NK化成肥料は窒素とカリだけを含有するものである。日本で生産されるのはカリ肥料を除いた単味肥料と複合肥料で、カリ肥料は国内にカリ塩を生産しないため、カナダ、ロシアなどから輸入している。またリンも、原料のリン鉱石を産出しないため、輸入に依存している。

 窒素肥料とリン酸肥料では、生産・需要とも窒素肥料の比重が高い。また、ほとんどの窒素肥料はアンモニアの形で供給される。製造工程の空中窒素固定法は技術的にきわめて優れた近代的形態で、日本の化学工業はその技術開発と蓄積によって発展した。第二次世界大戦前においては、アンモニア工業と窒素肥料工業が同義語として用いられるとともに、化学工業全体を代表する工業でもあった。

 日本の肥料需要は漸減しているが、新興工業国の経済発展による国民所得の増加や、世界的人口増加などによる食料需要増加に伴って作付面積は増加し、肥料の世界的需要は増加し続けている。

[青木弘明・大竹英雄

沿革

化学肥料工業の始まりは、1839年イギリスのJ・B・ローズが骨粉を硫酸で処理し、過リン酸石灰として特許を得たことが最初で、その後リン鉱石を原料とする過リン酸石灰の製造が工業化される原因となった。窒素肥料では1905年ドイツで考案されたフランク‐カロ法(Frank and Caro type nitriding oven)による石灰窒素の製造がイタリアで工業化され(特許は1898年)、さらに1913年ハーバー‐ボッシュ法(Haber-Bosch process)によるアンモニア合成技術の確立によって合成硫安の生産が工業化され(特許は1909年)、20世紀の化学工業の発展に画期的な影響をもたらした。またアンモニアは酸化すると硝酸となり、火薬製造の重要な原料となるため、第一次世界大戦を契機として各国とも軍事的目的からその保護育成に力を傾注した。

[青木弘明・大竹英雄]

日本の肥料工業の発展

日本の肥料工業は20世紀の初期までは有機質肥料が中心であったが、日露戦争の結果、大陸の大豆かす輸入が途絶したことによって過リン酸石灰の製造が急速に発達した。しかし技術および設備はきわめて幼稚であった。また窒素肥料工業は東京瓦斯(ガス)が石炭乾留の副生アンモニアを回収して硫安を製造したのが端緒で、本格的な工業化は1910年(明治43)日本窒素肥料(現、チッソ。2011年生産事業はすべて子会社JNCに譲渡)がフランク‐カロ法を導入して水俣(みなまた)工場で石灰窒素の生産を行ったのが最初である。しかし当時の農民は石灰窒素の使用に慣れていなかったため、水蒸気を吹き込んで分解し、変成硫安とした。第一次世界大戦はイギリスからの副生硫安輸入の途絶を招いたため、日本の硫安工業は国内市場を独占し、副生・変成硫安とも急速な拡大を示した。しかし大戦終結後の、欧米諸国におけるアンモニア合成法の成立は、日本の硫安工業の基礎を根底から瓦解(がかい)させる危機を招いた。その結果、石灰窒素法からアンモニア合成法への移行が進捗(しんちょく)し、各社とも欧米から技術を導入して、その生産が実現した。以後第二次世界大戦に至るまで、電力の大量・安価な供給や財閥などの積極的な経営政策と軍部の手厚い保護政策によって急速に発展した。

 第二次世界大戦は、直接軍需品への生産転換、設備の老朽化、戦災による被害(空襲による被害率54.1%)など硫安工業を著しく荒廃させたが、戦後は食糧増産の必要から石炭、鉄鋼と並んで基幹生産部門として傾斜生産が行われた。国家的な保護(復金融資、価格差補給金の支給、見返り資金の投入など)のもとでいち早く復興し、他産業に先駆けて1950年(昭和25)には戦前水準を回復、肥料工業全体として1955年には化学工業生産額の41%を占めるに至った。一時、過剰生産も生じたが、石油化学工業により大量生産されたアンモニア、尿素は、内需と東南アジアなどへの輸出努力により順調に肥料工業を拡大させた。しかしその後、オイル・ショックによって原料価格が高騰し、さらに天然ガスを原料とする諸外国の企業の輸出市場への参入は、日本の肥料工業の国際競争力を失わせたため、輸出は激減した。また国内市場も米価の据置き、農産物価格の乱高下、資材高騰などの農業環境の悪化で内需は低下した。

[青木弘明・大竹英雄]

国内肥料工業の現状

内需中心の産業として活性化させる目的で、1978年(昭和53)公布の「特定不況産業安定臨時措置法(特安法)」と1983年公布の「特定産業構造改善臨時措置法(産構法)」によって構造改善が実施され、設備削減などの生産調整が図られた結果、アンモニアと尿素の生産能力はそれぞれ実施前の48%と31%まで縮小した。またリン酸肥料や化成肥料でも過剰設備の処理や企業の提携、合併などが行われた。しかし内需の低迷に加え、1985年からの急激な円高により輸入が急増したため、1988~1989年にかけ尿素、溶成リン肥、高度化成肥料および湿式リン酸は「産業構造転換円滑化臨時措置法(円滑化法)」(1987年成立)によりさらに構造調整が進められた。1964年制定の「肥料価格安定臨時措置法」による硫安、尿素、高度化成肥料の生産・販売業者間での価格取決めは、円高による内外価格差の拡大や高値硬直への批判から1989年(平成1)に廃止された。1995年からは「特定事業者の事業革新の円滑化に関する臨時措置法」により事業の転換、集約化が進められ、この法律は1999年より「産業活力の再生特別措置法」に引き継がれている。しかし減少したとはいえ化学肥料製造を主とする事業所数は2009年(平成21)時点で155あり中小零細事業者が多い。

 日本の窒素肥料の生産は石油化学からのアンモニアによって製造され、リン酸肥料とカリ肥料は海外原料から製造されている。国内流通は8割が農協系統のチャネル(経路)である。

 肥料の国内需要は1979年には234万トン(肥料成分量。以下同じ)であったが、減少を続け2000年代に入ると130万トン前後を推移し、2008年には世界的な原料価格高騰の影響で100万トンを割り込むに至った。生産量もまた1974年の約332万トン(窒素、リン、カリの成分量。以下同じ)を頂点に一貫して減少を続け、2000年以降100万トンを割り込んでいる。内需減少の影響では、輸入も110.9万トン(1987)のピークから、70.9万トン(2005)へ減少している。内需に対する輸入割合は窒素肥料が13%、リン酸肥料は54%(2008)である。輸出は1972年の約175万トンを頂点に減少し、1992年以降は20万トン前後(成分量)で推移している。そのほとんどは窒素肥料であり、最大の輸出肥料である硫安の輸出量の9割はマレーシア、フィリピン、ベトナム向けである。

 国内の肥料需要の減少の背景としては、高齢化による農業人口の減少や作付面積の減少、施肥量の抑制、輸入農産物の増加、消費者の有機農産物指向と環境保全型農業などがあげられる。しかし、食料の安定供給のためには一定量の肥料を必要とする。2008年からのリン鉱石、尿素、塩化カリなどの原料輸入価格の高騰の背景には、世界の人口増加による食糧需要の増加、BRICs(ブリックス)(ブラジル、ロシア、インド、中国)など新興工業国の経済発展による食生活の変化、バイオ燃料向け穀物価格の高騰や需要増を背景とする生産拡大と、リン鉱石と塩化カリの資源偏在の問題がある。リン鉱石は中国、アメリカ、モロッコ、ロシアの4か国で、塩化カリはカナダ、ロシア、ベラルーシ、ドイツの4か国で世界の7割を産出している。また世界的規模で起こる気候変動による収穫の減少は投機資金の流入を誘い、肥料供給上の不安定要因となっている。リンについては、その安定供給のためヨルダンの国営企業との合弁による化成肥料の開発輸入が1997年に本格化した。また三井物産は2010年からペルーでリン鉱石の生産を開始し、リン鉱石、リン安(リン酸アンモニウム)、塩化カリ輸入量の半分以上を輸入する全農(全国農業協同組合連合会)は、リン鉱石の調達先をベトナム、チュニジアなどへ分散化させるなど、日本の肥料供給安定に向けてさまざまな努力が行われている。他方、太平洋セメントと小野田化学工業は、2011年に共同で、下水中に大量に含まれるリンを回収し、肥料化する技術を開発したため、リンは一定量、国内で確保することが可能となった。

 国民への食糧供給のため、肥料の確保はすべての国の課題である。カリやリンの安定的確保には、資源探索などの開発投資による輸入地域の多角化が求められる。また、全農や肥料メーカーが現地企業との合弁などにより現地で生産し、施肥技術の提供を伴う形で地元の食糧生産に貢献するとともに、製品を輸入するなどの努力が必要であろう。一方国内では、今後も合併、提携などにより効率的な生産・物流・販売体制を築き、経営基盤を強化することが必要とされている。2000年以降、減肥栽培が徐々に広まっているが、2000年には有機農産物の「有機JAS(ジャス)」が定められ、わずかではあるが有機栽培が拡大し始めるとともに、同年制定された「食品リサイクル法」(食品循環資源の再生利用等の促進に関する法律)によって、食品にかかわる産業や事業から排出される廃棄物の堆肥化も促進される環境となった。また同時期から、緩効性肥料、肥効調節型肥料による減肥栽培に関する施肥技術の研究が盛んに行われている。これらは降雨による窒素肥料の流失を防ぐが、流失窒素による河川の富栄養化を抑制することはもちろん、追肥が不要となり農業の経済性に貢献し、農家の労力軽減に資することになる。さらに、各農家の耕作地の土壌分析と栽培作物を前提に、その土壌に必要とされる成分を混合して供給されるBB肥料(Bulk Blending肥料=2種類以上の肥料原料を物理的に混合しただけで、粉砕・配合・造粒・乾燥などの工程がなくコストが安い肥料。土壌診断結果に基づいた配合設計が簡単にできる)も利用が拡大中である。このように肥料は高機能化、多様化しており、施肥の回数を減らしても生育段階に応じて必要な肥料が効果を発揮し効率的な農業生産が可能となるよう、供給サイドには需要家である個別農家に対し、今後も高機能型・省力型肥料の製品化はもちろん、土壌分析に基づく施肥技術提案とセットになった事業展開などで貢献することが期待される。

[大竹英雄]

『安藤淳平著『化学肥料の研究』(1975・日新出版)』『日本化学会編『新版化学肥料』(1977・大日本図書)』『金融財政事情研究会編・刊『業種別審査事典』第3巻(1996、2008)』『農林水産省消費・安全局農産安全管理課監修『ポケット肥料要覧 2009』(2010・農林統計協会)』『化学工業日報社編・刊「化学工業白書」2010年版、2011年版(2010、2011・月刊『化学経済』臨時増刊号)』『化学工業日報社編・刊『ケミカルビジネスガイド』各年版』『肥料協会新聞部編・刊『肥料年鑑』各年版』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「肥料工業」の意味・わかりやすい解説

肥料工業 (ひりょうこうぎょう)

化学肥料を製造する工業。化学肥料工業ともいい,化学工業の一分野である。日本の肥料工業の規模は,出荷額3210億円,事業所数193,従業員数6115人である(1995。《工業統計表》による)。そのうち複合肥料製造業が2276億円で全体の7割近くを占めている。また化学工業全体からみると肥料工業は出荷額で2%弱でしかない。化学肥料工業の基礎は,1843年イギリスのJ.B.ローズがドイツのJ.vonリービヒの農業化学理論を応用し,過リン酸石灰の製造を開始したときに築かれた。19世紀の間,工業製品としての肥料過リン酸石灰のみであったが,20世紀に入ると窒素肥料の工業的製造法が相次いで開発された。すなわち,電弧法による硝酸製造,フランク=カロー法による石灰窒素の工業化,そして1913年に工業的生産が開始されたハーバー=ボッシュ法によるアンモニアの合成は,その高圧合成の技術によって,その後の化学工業の発展に大きな影響を及ぼすこととなった。

日本においては,肥料の中心をなしたのは19世紀末ころまでは江戸期以来の魚肥であったが,日清および日露戦争後に大陸からダイズかすが安価に輸入されるようになり,大正中期まではダイズかすの時期が続いた。一方,化学肥料については過リン酸石灰工業が最も早く発達した。すなわち,1887年に東京人造肥料会社(後,大日本人造肥料。現,日産化学工業)が渋沢栄一らの協力により高峰譲吉によって東京深川に設立され,日本で初めて過リン酸石灰の製造を開始した。その後90年には多木肥料製造所が,92年には大阪硫曹も生産を行うに至った。さらに日露戦争によるダイズかすの輸入途絶,戦後の好況による農家の購買力向上により,過リン酸石灰工業は飛躍的な発展を遂げた。しかし急拡張の反動で過剰生産に陥る結果となり,1909年には最初のカルテルである人造肥料連合会が組織された。第1次大戦により先進諸国の輸出減,農業の好況による肥料需要増大が起こり,過リン酸石灰生産能力は戦前のほぼ2倍に拡大。しかし,戦後は反動期を迎え,カルテル化,トラスト化が進んだ。

 一方,窒素肥料工業は,09年日本窒素肥料(現,チッソ)が水俣工場においてドイツのフランク=カロー法により石灰窒素の生産を開始したことに始まる。しかし,石灰窒素は,施肥法が難しいことから大部分が変成硫安として販売されていた。そして第1次大戦後は合成硫安が登場し,肥料の中心的位置を占めることになる。すなわち大戦直前,ドイツのハーバーとボッシュによって工業化されたアンモニア合成は,このころ各国でも続々と新技術が発明されており,24年日本窒素肥料はカザレー法を導入し延岡工場で合成硫安の生産を開始した。そのほかにも鈴木商店がクロード法で,大日本人造肥料がファウザー法で,また昭和肥料(現,昭和電工)が国産技術で,それぞれ硫安の生産を開始するなど,大正末から昭和初年にかけて硫安工業は大きな発展を遂げた。このころ欧米各国は硫安の主原料であるアンモニアの火薬原料としての軍事的価値からも,その育成に努めた結果,過剰生産に陥るようになった。そのため,国際市場においてダンピング競争が行われた。28年には強力な国際カルテルであるヨーロッパ国際窒素協定が成立,日本でもこれに対抗すべく,30年に日本窒素肥料,電気化学工業,大日本人造肥料が窒素協議会を組織して,輸入規制を政府に要求するなど政治問題化したが,31年の金本位制離脱,低為替政策によって外国硫安流入の問題は一段落した。1930年代,硫安工業は,外国硫安との競争が除かれたこと,農村の不況が回復し需要が順調に増加したこと,さらに軍需の増大と結びついたことなどから,順調に発展した。しかし,日中戦争,太平洋戦争が激化するにつれて,硝酸など直接軍需品の生産増加,原料途絶,戦災などのため,生産は急速に減少していった。

戦前,たとえば硫安についてみると189万tの生産能力を有していた日本の肥料工業も,老朽化,戦災による破壊などのため終戦時には実動能力は18万tにまで低下していた。このようななかで,政府は食糧増産,経済復興をめざし,鉄鋼,石炭などとともに重点産業として肥料工業に傾斜生産方式,すなわち,(1)復興金融金庫など国家資金の重点投入,(2)価格差補給金制度による赤字補塡(ほてん),(3)原料・資材の優先投入,などの助成措置をとった。この結果,肥料工業は,硫安,石灰窒素,過リン酸石灰を中心に急速に復興し,49年までには各肥料とも戦前最高水準にまで生産は回復し,国内需要を満たしたうえに輸出余力も生ずるようになった。すなわち硫安の輸出は1948年からGHQの命令により開始されていたが,同年わずか6000tにすぎなかった輸出量は,52年には24万8000tに達するなど急速に拡大した。ところが朝鮮戦争後は,国際競争激化により輸出価格が下落したこと,輸出赤字の国内価格への転嫁が政治問題化したことのため,これを契機に54年いわゆる肥料二法(〈臨時肥料需給安定法〉〈硫安工業合理化及び硫安輸出調整臨時措置法〉)が制定された。そして肥料二法のもと,日本硫安輸出会社による輸出の一元化,最高価格の公定,さらに第1次合理化計画に基づくガス源転換,尿素・高度化成の比重増による肥料形態の多様化などが進められた。58-61年には中国向け輸出中止,アメリカのドル防衛策による援助資金の削減,輸出価格低落による輸出赤字の増大など,窒素肥料工業は厳しい環境下におかれた。そして1959年スタートの第2次合理化計画に基づくコスト引下げ等の対策も所期の効果をあげることはできなかった。64年には肥料二法に代えて〈肥料価格安定等臨時措置法〉が制定され,新しい価格形成の仕組みが確立された。昭和40年代に入ると,国際需給の拡大見通しと原価引下げの観点から2次にわたる大型化計画が推進された。しかし,結果的にアンモニアおよび尿素の生産能力は当初予定されていた需要の伸び率を大きく上回り,尿素の輸出依存度が70%を超えるなど,きわめて安定性を欠く状態になった。リン酸肥料工業についても,設備大型化を通じて高度化成肥料を中心としたリン酸・複合肥料工業の発展が図られたが,同時に潜在的な供給過剰傾向が生み出された。このような時期に発生した1973年の第1次石油危機は,世界的な肥料需給逼迫(ひつぱく),輸出価格の急騰を招き,化学肥料工業も一時的活況を呈した。しかし,74年から75年にかけて内外の肥料需給は急速に軟化し,また産油国,および日本の主要輸出先であったインドネシアなどアジアの発展途上国が,安価なガス源による有利な輸出を目的としてアンモニア・尿素プラントの建設を進めたため,日本のアンモニア系窒素肥料工業は,輸出市場においていっそう厳しい状況におかれることになった。また,原油価格の高騰は,アンモニアガス源を石油系原料に依存する日本の窒素肥料工業の生産原価を押し上げ,操業率低下によるコストアップ,輸出価格の低下とも相まって企業業績は圧迫された。リン酸肥料工業についても,アンモニア,リン鉱石等原料価格高騰が,国内肥料価格のの上昇とリン安輸入の急増をもたらし,リン酸肥料工業の安定供給基盤は危機に陥った。これに対し,79年第1次構造改善計画が策定され,アンモニア,尿素,湿式リン酸の3業種を対象に設備処理を中心とした対策が実施された。しかし,同年の第2次石油危機により,原料ナフサが大幅に高騰,天然ガス,オフガスなどを原料としている諸外国に比べて石油原料への依存度の高い日本のアンモニア・尿素工業はさらに国際競争力を失うに至り,リン安の大量輸入も続いた。このような状況下,82年6月第2次構造改善計画が策定され,第1次のアンモニア,尿素,湿式リン酸に化成肥料および溶成リン肥を加えた5業種について,設備処理,生産受委託等の対策が進められ,内需指向型産業への脱皮が図られている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「肥料工業」の意味・わかりやすい解説

肥料工業【ひりょうこうぎょう】

硫安,石灰窒素など窒素質肥料,リン酸肥料カリ肥料の各製造業の総称であるが,窒素肥料が中心である。1906年のフランク=カロー法による石灰窒素,1913年ハーバー=ボッシュ法によるアンモニア合成の工業化を画期として西欧で確立され,20世紀前半の化学工業の発展をリードした。日本では1888年過リン酸石灰,1909年石灰窒素工業,1923年合成硫安工業が開始され,第2次大戦後は1950年ごろほぼ復興を終わった。この間多肥農業とともに発展し,化学工業の中心的地位を占めた。1955年以降は輸出産業の性格が強まり,また石炭から石油へのガス源転換,設備大型化,新肥料(尿素,塩安,溶成リン肥,高度化成肥料等)の開発を進めた。しかし発展途上国の追上げや石油危機による原油高騰が競争力をそぐ結果となり,1980年代に入ると構造不況に陥り,以後構造改善が図られた。1997年の主な化学肥料生産額は約2238億円。→化学工業
→関連項目無機化学工業

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android