改訂新版 世界大百科事典 「空中窒素固定」の意味・わかりやすい解説
空中窒素固定 (くうちゅうちっそこてい)
nitrogen fixation
空気中の窒素を,人間が利用しやすい窒素化合物の形に変換する処理法。単に窒素固定ともいう。空中の窒素の大部分は分子状窒素N2ガスで,そのままでは利用しにくい。そこでアンモニア,酸化窒素,カルシウムシアナミド,窒化物,含窒素有機化合物,その他の形にするのであるが,それには化学的方法と生物学的方法がある。
化学的空中窒素固定法
空気液化法で得た窒素ガス,あるいは空気そのものから,まず第1次の窒素化合物(たとえばアンモニア)を合成するまでが,窒素固定である。これを工業的規模に実施するのが空中窒素固定工業で,ほぼ20世紀初頭に成立した。第1次化合物からは,さらに多種の窒素化合物誘導品を製造する。現在,以下に述べる数種の方式が実施あるいは考案されている。このうち工業として成立しているのは(1)と(3)で,(4)以下は実験室的研究である。
(1)アンモニア合成 窒素と水素とから高圧ガス反応N2+3H2─→2NH3によってアンモニアを合成する方法で,現在の空中窒素固定工業の大部分がこの型に属する。アンモニアからは,アンモニウム塩,尿素,アミド化合物,硝酸,硝酸塩,ニトロ化合物,その他をつくることができ,窒素肥料,食品,医薬,プラスチック,火薬,染料などとして広範に利用される。
→アンモニア
(2)酸化窒素合成 空気中の窒素と酸素とを,高温アーク中に通して化合させ,酸化窒素NOをつくる。次に二酸化窒素NO2まで酸化し,これを水に吸収させて硝酸HNO3を得る。この硝酸製造法を電弧法(アーク法)と呼ぶ。電力消費が著大で,水力電気の豊富廉価なノルウェー地方等以外では発達しなかった。日本では硝酸はアンモニア酸化法で製造される。しかしアーク法には,原料が空気と水だけという利点があり,そこで,電力以外の熱源を考えたり,原子炉を利用して放射線で窒素N2,酸素O2をイオン化して反応させるなどの手段も検討されている。
→硝酸
(3)石灰窒素法 炭化カルシウムと窒素との固相-気相反応を行わせると,カルシウムシアナミドと炭素との混合物(石灰窒素)が得られる。
CaC2+N2─→CaCN2+C
石灰窒素は窒素肥料になり,また有機質石灰窒素誘導体の出発物質である。上の窒化反応は発熱反応であり,反応開始時に外部から熱を与えるだけで進行する。ただしCaC2製造に電力を要する。
→石灰窒素
(4)窒化物法 窒化アルミニウムAlNを経てアンモニアを得る方法。
(5)シアン化物法 シアン化ナトリウムNaCNを経てアンモニアを得る方法。
(6)窒素配位錯体による固定 分子状窒素をチタンTi,バナジウムV,クロムCrなどの遷移金属原子に配位させた金属錯体をつくり,次にこれを加水分解してアンモニアをつくる方式が,現在検討されている。
執筆者:金澤 孝文
生物学的窒素固定
一般には単に窒素固定と呼ぶ。空気中の窒素が土壌中に存在する遊離の細菌,ラン藻,およびマメ科植物の根に共生している細菌などの生物(表1)によってアンモニアに変換されることをいう。このように窒素固定生物のなかには非共生的に窒素固定を行うものと共生的に窒素固定を行うものとがある。いままでに報告されている窒素固定生物は,一,二の例外を除きすべて細菌やラン藻など原核生物であるということから,窒素固定酵素系は生物進化のひじょうに古い時代に出現した系であると考えられる。生物による大気中の窒素固定は地球上の窒素の循環の一環を担っている。根粒は1年間に1ha当り100~300kgの空中窒素を固定すると算定されており,遊離の細菌が行う窒素固定量の10倍以上といわれている。マメ科植物が土壌の肥沃化に役だつことは古代中国,ギリシア,ローマ時代の昔からすでに知られており,ギリシア時代の記録には,やせた土地にカラスノエンドウやクローバーを植えると土地が肥えるとの記載がみられる。日本でも早春の田園風景をかざるレンゲは,田畑にすきこみ肥料として利用するために植えられたものである。これらの植物による土壌の肥沃化は,根粒が空気中の窒素を固定することによるためであることがわかったのは19世紀後半であり,反応機構の研究が本格的な進展をみせるのは第2次大戦後のことであった。
窒素固定反応
窒素固定の反応はN2+3H2─→2NH3であるが,高温(500℃),高圧(200気圧)下で行われる工業的な化学反応過程とは異なる。N≡Nの結合エネルギーは226kcal/molであり,この三重結合を切るには多量のエネルギーを必要とする。N2からNH3への3段階の還元反応はいずれも基質および反応中間体が酵素表面に結合したままの形で進行し,1段階ごとに2電子と4ATPを必要とする(図1)。しかし,実際の反応ではN2の還元と同時にH2の発生が起こり,これを行うには2H⁺の還元が必要で,そのためにさらに2電子と4ATPを必要とする。これをまとめると以下のようになる。
窒素固定酵素は窒素還元ばかりではなく,表2に示すような多くの活性をもつ基質特異性の低い酵素である。このうちにアセチレンのエチレンへの還元反応があるが,エチレンの定量はガスクロマトグラフィーにより高感度でかつ容易に行えるため,今日では窒素固定酵素活性の測定はほとんどの場合この反応を利用して行われている。
窒素固定反応では電子は次のような経路で伝達される。
電子供与体→フェレドキシン→[Feタンパク質→Mo-Feタンパク質](=窒素固定酵素)→N2
窒素固定酵素はFeタンパク質,Mo-Feタンパク質と呼ばれる二つのタンパク質部分(表3)からできている。フェレドキシンから電子を受け取り還元型となったFeタンパク質は,Mg-ATP2⁻と結合することにより酸化還元電位が低下し,Mo-Feタンパク質を還元する(図2)。電子供与体の種類は窒素固定生物の種類によりそれぞれ特徴的であり,嫌気性細菌ではピルビン酸またはH2(図3),好気性ではNADHやNADPHが電子供与体となり,ラン藻では細菌でみられる電子供与体のほかに,光合成の光化学系Iが電子供与系として働く(図4)。
窒素固定酵素
窒素固定酵素は酸素O2にきわめて弱く,嫌気性細菌,好気性細菌,どちらから精製した窒素固定酵素でもO2により数分間で不可逆的に失活する。好気性細菌の生細胞においてもO2分圧を上昇させると活性は低下する。この酵素は,地球上の大気がN2やCO2により構成され,まだO2が存在していなかったころに出現したのではないかと思われる。現在の窒素固定生物はO2に対するなんらかの保護機構を備えている。好気性細菌では環境のO2分圧が上がると,O2消費を著しく増大させ細胞内のO2濃度を下げる。マメ科植物の根粒にはレグヘモグロビンleghemoglobinと呼ばれるO2と可逆的に結合する色素タンパク質があり,これが根粒菌の呼吸に必要なO2を運ぶ役割と,根粒内のO2濃度を下げる役割の両方を担っている。窒素固定ラン藻の多くは,ヘテロシストheterocyst(異質細胞)と呼ばれる特殊な細胞で窒素固定を行うといわれているが,この細胞には光合成の光化学系Ⅱが存在しないので光合成によるO2発生がなく,窒素固定酵素に好条件となっている。窒素固定反応の副産物であるH2に一種のヒドロゲナーゼuptake hydrogenase(図3のヒドロゲナーゼとは異なる)が働き,H2からチトクロムへ電子が渡されO2を還元(水が生成)する。このことが窒素固定酵素自身の保護機構となっている。
窒素固定生物はアンモニアや硝酸イオンを利用することもできるが,これら(とくにアンモニア)を利用して生長する場合は窒素固定酵素は生成されない。共生的に窒素固定を行っている根粒菌は,宿主植物が光合成によって生産した有機化合物を基質として使い,その代りにその菌が固定した窒素をアラントイン,アミノ酸,アンモニアの形で宿主植物に渡す。
根粒菌の窒素固定酵素の合成を支配する遺伝子は,菌自身のほうだけにあることが知られている。遺伝子に関しては窒素固定細菌Klebsiellaで詳しく調べられており,窒素固定酵素の遺伝子群nifは13~14個のシストロンより成り,七つの異なったオペロンで構成されている。もし高等植物自身が窒素固定をすることができれば,窒素肥料を与えることなく大気中に無尽蔵にある窒素を利用させて作物を育てることができるだろう。このような夢の実現をめざして,現在遺伝子工学的手法によってnifを高等植物に組み入れる試みがなされている。
執筆者:辻 英夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報