興源寺(読み)こうげんじ

日本歴史地名大系 「興源寺」の解説

興源寺
こうげんじ

[現在地名]徳島市下助任町二丁目

興源寺川北岸にある。大雄山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。初め江岸山福聚寺といい、藩祖蜂須賀家政により父正勝の菩提を弔うため徳島城内ののちの北蔵付近に家政の義兄東嶽(長存)開山として創建された。寺名は正勝の諡号良岩浄張福聚寺にちなむ。慶長六年(一六〇一)大岡おおかの現在地に移され、元和八年(一六二二)伽藍が完成したとされる(蜂須賀家譜)。東嶽はのち下八万しもはちまん村の雲水うんすい庵に隠居し、伊勢から広山を招いて中興一世とし、次いで頑叟・珈などの優れた禅僧住持とした。

慶長一六年四月に没した家政の母大匠院は福聚寺に葬られ、元和六年二月二六日に没した初代藩主至鎮(峻徳院)も福聚寺に埋葬された。寛永一三年(一六三六)一〇月七日には山号・寺号が大雄山興源寺と改められた。同一五年一二月晦日に没した家政も当寺に葬られ、その後も二代藩主忠英以降六代藩主宗員までの歴代と九代至央は当寺を墓所とした(阿淡年表秘録)。だが明和三年(一七六六)一〇代藩主重喜が万年まんねん(御墓山)を蜂須賀氏一族の墓域と定めて以後は、当寺には遺髪のみ納められることとなった。

歴代住僧のうち中興の広山をはじめ延宝期(一六七三―八一)の頑叟、宝永期(一七〇四―一一)伽、寛保期(一七四一―四四)の的翁はそれぞれ本山の京都妙心寺に住した高僧で、化政期以降は玉澗の学徳を慕って当寺には雲水が集まったと伝えられている(妙心寺史)


興源寺
こうげんじ

[現在地名]永源寺町高野

愛知えち川北岸にある。大雲山と号し、臨済宗永源寺派。本尊は聖観音。永源寺四派の一つで、永源寺三世松嶺道秀を開山とする。道秀は応永二二年(一四一五)老齢を理由に住持を辞した。当寺の創建は道秀が永源寺住持を辞した頃ともされる。祖塔は牛襴ぎゆうらん(開山堂)といい、僧堂にあてられた。応仁―文明(一四六七―八七)の頃には松嶺門下の嘉隠道贇・玉音道瓊・定林道静らの名僧が住した。応仁二年当時の住持道瓊は、永源寺に寓居していた横川景三から「玉音」の字を付されている。


興源寺
こうげんじ

[現在地名]鹿沼市加園

満目山と号し曹洞宗。本尊正観音。宝徳二年(一四五〇)の創建と伝える。境内墓地に五輪塔があり、開基の渡辺右衛門尉の墓と伝える。もとは現在地から南西方の山麓にあったが、元禄九年(一六九六)火災のため焼失再建の時、現在地に移った。江戸時代は朱印地七石を有した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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