日本歴史地名大系 「興隆寺」の解説
興隆寺
こうりゆうじ
〔創建〕
大内盛見が応永一一年(一四〇四)二月、興隆寺本堂の再建供養に際して納めた興隆寺本堂供養日記(興隆寺文書)に、推古天皇一九年に、大内家の祖百済国の琳聖太子が創建した仏閣であると述べている。天長四年(八二七)頃、大内茂村が
興隆寺の名は正嘉元年(一二五七)大内弘貞が施入した銅鐘の銘文に「興隆寺 奉施入 権介散位多々良弘貞 娑婆世界南閻浮提大日本国山陽道周防国吉敷郡大内村氷上山興隆寺鐘也 正嘉元年丁巳十一月廿七日 鋳冶大工丹治助利 観達金剛仏子定直」とあったという(寛延三年「氷上山秘奥記」)が、鐘は現存しない。また
〔大火と修復〕
南北朝時代には、大内氏の庶流鷲頭氏が周防守護職として実権を握り、宗家大内氏はその下に雌伏していたが、暦応四年(一三四一)に大内氏一族の代官が氷上寺に放火し、境内の坊舎以下在家まで焼失させた。この放火の犯人ははっきりしないが、当時の情勢から鷲頭氏と宗家との内訌と考えられる。宗家の大内弘幸はすぐその復興を氷上山衆徒に命じ、八年後の貞和五年(一三四九)に本堂の再建が成就した(興隆寺本堂供養日記)。観応二年(一三五一)弘幸の子弘世は南朝方から周防守護に補せられ、北朝方の周防守護鷲頭氏と対抗した。翌年弘幸は没したが、弘世は鷲頭氏を押えて周防国を大内氏宗家の勢力圏内に復した。文和二年(一三五三)南朝方であった足利直冬は興隆寺を祈願所とした(興隆寺文書)。これは当時南朝方であった弘世の歓心を得て、大内氏の勢力に依存しようとしたためである。
大内弘世は文和三年正月および延文二年(一三五七)正月に興隆寺別当に宛てて、妙見社の恒例勤行の祭礼以下を執行し、また修理なども厳密に行うよう命じている(興隆寺文書)。
興隆寺
こうりゆうじ
沿革は不詳であるが、奈良時代作の銅造如来立像が所蔵され、寺伝では平安時代の開基とされ、報恩が桓武天皇の悩みを祈祷により除いたので天皇の祈願所となったと伝えられる。
「伊予温故録」「予陽郡郷俚諺集」に文治三年(一一八七)の古文書として、
とあり、源頼朝が寺運再興のため寺領の寄付などをしたと伝えられる。興隆寺文書の建長六年(一二五四)の条には「伊予国西山寺住僧等申殺生禁断間事 右当寺領内東西廿町余、南北五町也」とあり、六波羅探題が地頭御家人等の寺領内殺生禁止を命じている。西山寺の名もみえ、広大な寺領があったことがわかる。同寺銅鐘銘には弘安九年(一二八六)とあり、興隆寺文書の延元二年(一三三七)の条には守護代永美が寺内での乱暴を停止させたことがみえ、また延元四年には、
とあり、四条有資が朝敵退散を祈願させている。
興隆寺
こうりゆうじ
興隆寺
こうりゆうじ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報