古田村(読み)こたむら

日本歴史地名大系 「古田村」の解説

古田村
こたむら

[現在地名]丹原町古田

周桑平野の西部山麓に位置する。東は願連寺がんれんじ村・池田いけだ村に、南は久妙寺くみようじ村・河根かわね村に、西は河根村・田滝たたき村、河之内かわのうち(現東予市)徳能とくのう村に、北は徳能村徳能出作とくのうでさく村、明理川あかりがわ(現東予市)に接する。西部は山で東に平野が開け、水田を主とする農村。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)桑村くわむら郡の項に高九六四石六斗九升、うち田八五七石二斗二升、畠一〇七石四斗七升とあり、「古田村 日損所、芝山有、林少有」とあり、元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記も同石高で「松平隠岐守知行」とある。明治一四年(一八八一)の「伊予国桑村郡古田村地誌」に「明暦元年未十月本村ヲ分テ徳能村ニ合ス」とあり、同年の「伊予国桑村郡徳能出作村地誌」には「寛文七丁未年古田村ヲ分ケテ之ニ合ス」と村の分合を記しているが、各村の表高には変化がない。天保郷帳では高九七八石六斗四升七合となっている。

和名抄」に「桑村郡 籠田 御井 津宮」とあり、籠田こた郷の中心として古くから開けたと思われる。弥生時代の遺跡として、字松の木まつのき古田平形銅剣出土地から数口の銅剣が出土、また上の山の古田石剣出土地からは鉄剣型石剣が出土し、ほかにも弥生各期の土器片が多数出土している。


古田村
こたむら

[現在地名]平戸市辻町つじちよう神船町しぶねちよう大佐志町おおざしちよう無代寺町ぶだいじちよう

中津浦なかつうら村の南にあり、深い入江の古田浦に臨む。地内の大坪おおつぼに縄文時代終末期から弥生時代にわたる遺跡があり、多量の土器・石器が出土するほか住居跡・墓地や貯蔵穴(カシの実)が検出されている。また中国製の青磁も出ている。大佐志半島の北の宮の島みやのしまとよばれる岬に神功皇后の義弟十城別命の武将神隼のものという石祠があったが、のち鮎川の宮地岳あゆがわのみやじだけ神社に合祀されたという。中世は宇野うの御厨のうちで、建武四年(一三三七)「宇野御厨内山代・多久島・青島・船木・荒古田・東島」などの地頭職が、山代弘に亡父の正が残した文書(正和三年一二月一六日下知状・元亨元年八月一〇日譲状)に基づいて安堵されているが(同年四月三日「足利直義安堵状」山代文書)、この荒古田は当地の可能性がある。


古田村
ふるたむら

[現在地名]五十崎町古田

小田おだ川西岸の狭小な沖積低地神南かんなん山の東山腹の丘陵地とからなる村。東は小田川を隔てて平岡ひらおか村、南は大久喜おおぐき村、西は喜多山きたやま(現大洲市)、北はうち(現内子町)に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項に「古田村 日損所、水損所、茅山有、川有」とある。大洲藩の紙・蝋生産の中心で、村内には在町五十崎いかざき町があり、商業も盛んであった。

文政四年(一八二一)の「積塵邦語」によると、寛永年間(一六二四―四四)大洲二代藩主加藤泰興が当村在住の土佐浪人岡崎治郎左衛門に命じて、藩の御用紙を漉かせたのが大洲半紙の紙漉の初めであるという。


古田村
ふつたむら

[現在地名]茅野市豊平とよひら 上古田・下古田

小泉こいずみ(一〇七〇メートル)の北部、八ヶ岳連峰阿弥陀あみだ岳を源とするやな川の下流、渓谷に沿う。上古田・下古田の二集落に分れ、北は南大塩みなみおおしお村・塩之目しおのめ村に接する。

嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」に「ナカタ(長田)ニ日月古田ニ十五社クモニワ大トヲリウ大天白」とあるのを初見とする。大祝職位事書のうち、建武二年(一三三五)の条に、即位神事の費用負担者として「古田神主 白米三升 三ケ村 百文古田 福沢卅二文百文南大塩 中村布代六十五文」とあり、古田神主こうぬしの名は諏訪御符礼之古書の文安三年(一四四六)の条に、一四人の神主中、千野・上原の次にみえる。


古田村
ふつたむら

[現在地名]川井村古田

川井村の東に位置。閉伊街道が通る。慶長六年(一六〇一)に当地は、川井村などとともに楢山氏の知行地となっていたものと思われる。田地なく畑方のみの貧村で、天和元年(一六八一)には小高であったため伝馬役を課されると同時に上田うえだ田代たしろ村・門馬かどま村・平津戸ひらつと村などとともに蔵入地に編入され(沢田文書)、以来正五御礼金だけを上納することとなり、ほかは伝馬役の手当として郷役ともに無役高になった(「宮古代官所支配高帳」小笠原文書)


古田村
ふるたむら

[現在地名]藤原町古田

深尾ふかお村の西、揖斐いび川の支流赤尾あかお川の源流に位置する。当村から、北に接する美濃国養老ようろう(現岐阜県)に抜ける道を、土岐とき越あるいは多羅たら越と称する(員弁雑志)江戸時代を通じて桑名藩領。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、免は一ツ八分で同藩領でもきわだって低い。文政七年の村明細帳(徳川林政史蔵)には、戸数五〇、人数二二六(男一一七・女一〇九)、馬一四。助馬金一分と銀七匁六分、増金三匁六分七厘を負担した。神祠に神明宮(篠立村と持合)八幡宮・山王宮・大将軍・山之神、寺院に善行ぜんぎよう寺と記す。


古田村
ふるたむら

[現在地名]西之表市古田

住吉すみよし村の東に位置し、東は安城あんじよう村、北は西之表村、南は野間のま(現中種子町)川脇こうわき(名だら川)が流れ、村域は東西一里五間・南北一里三〇町(種子島記)。慶長一四年(一六〇九)六月一〇日、種子島久時(一六代)は古田蓮勝寺三社(現豊受神社)に神領一町四反余(一〇石余取)を寄進している(「種子島久時寄進状」種子島文書)。元禄二年(一六八九)の「懐中島記」によれば高五五石余、男女四三、うち給人一三、馬八。延享(一七四四―四八)頃の高六一石余(三州御治世要覧)。化政期には高六七石余、竈数二〇、総人躰六八、うち郷士四六・足軽六・在郷一六(種子島記)。「懐中島記」によると種子島時氏(「種子島家譜」では文安四年生れ)が一二歳から一六歳まで居住し、前出種子島久時も仮住いしたという。


古田村
ふるたむら

[現在地名]古座町古田

重畳かさね山の東にあり、西向にしむかい浦の北に接する。地名について「続風土記」は「布留田と唱れとも(中略)其本は加布田にて神田の義と思はる」と記し、さらに考証して「紀伊国神名帳」に載る滝姫神を祀る滝姫たきひめ神社(現重山神社)の神田が転じて地名になったとする。重畳山麓に御供田があり、「東牟婁郡誌」は、古くから村中の尾崎吉蔵なる者がこれを耕し、祭礼などの神供に用いたと記す。慶長検地高目録によると村高一一八石余、小物成六升一合。


古田村
ふるたむら

[現在地名]芦北町古石ふるいし

湯浦ゆのうら川上流にあり、下流は中屋敷なかやしき村、上流は古道ふるみち村。石垣で幾重にも築かれた段々畑状の狭い水田が重なり、その中に家が点在する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。湯浦手永に属し、延宝三年(一六七五)の葦北郡湯浦手永小村限御帳(芦北町誌)によれば、男女二八、うち女一〇、一五歳から六〇歳までの男九人のうちに二人の郡筒が含まれ、竈数四、馬二とある。


古田村
こだむら

[現在地名]渥美町古田

はたケ村の東に隣接し、高木たかぎ村と山田やまだ村の西に続く。永禄六年(一五六三)間宮直綱領となり、元和五年(一六一九)に戸田淡路守氏経領となって明治に至った。享保三年(一七一八)の当村戸数は二二七(渥美郡史)

古来、隣接の畠村港とともに渥美半島より尾張・伊勢方面への門戸であり、古老の言によると、江戸時代は二〇〇石から五〇〇石船が出入りしていたという。


古田村
ふるたむら

[現在地名]本山町古田

吉野川支流木能津きのうづ川の上流、木能津村の南にある山村。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳に「古田名」とみえ、検地面積四町一反三一代一歩、うち田分二町五反三九代一歩、畠分八反七代、屋敷数九で七反三五代。公事分と名本分からなる。同年の本山郷高山切畑地検帳によれば四筆三反一〇代の切畑があり、公事分三筆、名本分一筆で小麦が記される。元禄地払帳では総地高一〇〇石余、うち本田高四一石余、新田高五九石余。


古田村
ふるたむら

[現在地名]小国町古田

若山わかやま村の東、金目かなめ川右岸に位置する。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高四一石余、免二ツ五分、家数五(うち役家四・肝煎一)・人数二九、役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中。享和二年(一八〇二)小国絵図では高三五八石、夫頭八四人。上杉領村目録では高の記載を欠き反別は田二〇町三反余・畑九町四反余・屋敷一町八反余(文化七年改)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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