船橋村
ふなはしむら
[現在地名]枚方市船橋本町一―二丁目・南船橋一―二丁目・東船橋一―二丁目・北船橋町・西船橋一丁目・東山一―二丁目・西招提町・養父東町・上島東町・招提北町三丁目・楠葉〈面取町一―二丁目・美咲一丁目・朝日一丁目・並木一丁目〉
交野郡に属し、淀川左岸の沖積低地に位置する。船橋川が村内を西流し、北と西は楠葉村、南は招提村・養父村。地名は、かつて天野川が北流していた頃、天皇の行幸に際し舟橋を架けたことによるという(大阪府全志)。「河内志」に「船橋属邑一」とみえる枝郷は塚本をさす。「河内国小松寺縁起」に引く久安元年(一一四五)の近衛天皇綸旨に船橋郷がみえる(ただしこの文書は検討を要する)。天文二四年(一五五五)七月吉日の牧一宮神田帳(片埜神社文書)に「舟橋郷」として「上山観長、養父彦六、つか本兵衛」などとみえ、宇山・養父・塚本一帯を含んでいたと考えられる。
船橋村
ふなはしむら
[現在地名]藤井寺市船橋町・北條町
国府村の北に位置し、石川と大和川の合流点左岸にあたる。かつて大和川は石川を合せたのち北東流していたが、宝永元年(一七〇四)の付替えにより西流、村の北は大和川で限られることになった。大和川対岸の柏原村(現柏原市)とはかつては一村であったが、のちに分れたともいう(大阪府全志)。西方岡から東進してきた古代の大津道は当地で石川を渡り、対岸安堂(現柏原市)へ向かった。また生駒山地西麓を南下してきた東高野街道も安堂の西端で大和川を越え、当地へ上った。
船橋村
ふなばしむら
[現在地名]世田谷区船橋一―七丁目・粕谷一丁目・八幡山一―二丁目・経堂三―四丁目・千歳台一丁目・同三丁目
荏原郡上北沢村の南、経堂在家村の西にあり、多摩郡に属する。品川用水が東の世田谷村との間を流れ、また烏山用水が西の廻り沢村より入り、経堂在家村へと流れる。天文二二年(一五五三)五月大吉日の吉良頼康判物(大平文書)によれば、世田谷城主吉良頼康から「旋沢之内船橋谷板橋分、つるさし在家、かち山谷山ちう次郎右衛門分、八幡免」などの山野が等々力の領主大平清九郎に宛行われ、諸公事が免除されている。
船橋村
ふなばしむら
[現在地名]高畠町船橋
福沢村の東、和田川左岸に位置。舟橋とも書いた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高二五三石余、免二ツ二分、家数一〇(うち役家三・肝煎一)・人数五八。蒲生氏高目録帳では村柄は下。慶長三年(一五九八)上杉氏(のち米沢藩主)領となるが、寛文四年(一六六四)幕府領となり、以後は安久津村と同様の変遷をたどる。元禄四年(一六九一)幕府検地があり、宝永三年(一七〇六)の新検高寄并村付(鈴木文書)によると高五二九石余、漆木数七、村柄は上。
船橋村
ふなばしむら
[現在地名]昭和町豊川船橋
豊川中流の浸食谷に発達した段丘上に位置する。東は羽白目村、西は槻木村、北は岡井戸村と接する。集落中央南側の低丘陵地にある神明社境内に室町末期と推定される五輪塔があり、また江戸時代の経塚もある。
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「四百拾七石三斗三升 船橋村」とあり太閤蔵入地であった。
船橋村
ふなばしむら
[現在地名]船橋市本町一丁目など
近世の船橋村は五日市村・九日市村・海神村の総称で、とくに継場船橋宿としての交通業務を一体で行っていたことから、対外的に船橋村とする場合が多かったと考えられる。天正一九年(一五九一)一一月の徳川家康寄進状(船橋大神宮文書)に葛飾郡船橋郷とみえ、郷内の五〇石が船橋大神宮領となっている。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に舟橋村とあり、高二千石で旗本稲郷領、道普請では丁場一九町を負担している。三村はそれぞれ検地帳をもち、また名主・組頭・百姓代も別個で、年貢納入も別々に行った。
船橋村
ふなばしむら
[現在地名]出雲崎町船橋
北は稲川村、東は島崎川を挟んで小木村。西山丘陵を背後に島崎川の上流の谷に発達した集落。川沿いに浜街道。正保国絵図に村名の記載なく、元禄郷帳に高一六八石余とみえる。近世を通じて幕府領。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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