経塚(読み)キョウヅカ

デジタル大辞泉 「経塚」の意味・読み・例文・類語

きょう‐づか〔キヤウ‐〕【経塚】

経文経筒・経箱に入れて埋めた塚。後世まで教法を伝えようとし、また追善供養現世利益げんぜりやくなどを目的に平安中期から近世にかけて行われた。仏具などを添えることが多く、経石瓦経なども埋めた。

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精選版 日本国語大辞典 「経塚」の意味・読み・例文・類語

きょう‐づかキャウ‥【経塚】

  1. 〘 名詞 〙 経文を書写して地中に納めた塚。経典は経筒、経箱に入れて埋め、仏具や鏡、刀子(とうす)などを添えることが多い。平安時代から室町時代に及ぶ。経文は法華経が多い。
    1. [初出の実例]「かの開山上人のむかし、常陸の国にて化導ありし経塚(キャウヅカ)の因縁を思ひ出し」(出典:談義本・世間万病回春(1771)二)

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日本歴史地名大系 「経塚」の解説

経塚
きようづか

[現在地名]浦添市経塚・仲間三丁目

浦添うらしー間切の南端、西原にしばる間切境に位置し、北は安波茶あはちや村。安謝あじや川支流の沢岻たくし川右岸と小湾こわん川上流左岸の間で、浦添うらしー街道(西海道の一部)に沿う。経墓とも記され(「日記」福地家文書)、チョージカともよんだ。地名は嘉靖三年(一五二四)頃、当地北の経塚原ちよーじかばるに建立された金剛嶺こんごうれい碑による(「球陽」尚真王四八年条)。近世末期から近代初期にかけて安波茶村・前田めーだ村・沢岻たくし村の一部に寄留した士族層によって形成された屋取集落。万暦二五年(一五九七)の浦添街道普請の際、徴用された宮古島民が飲用に利用したという宮古井なーくがーが当地南の下平良大名原しちやーてーらうふなーばるにあり、同地に居住した士族層を中心に集落が発展したと思われる。

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改訂新版 世界大百科事典 「経塚」の意味・わかりやすい解説

経塚 (きょうづか)

経典を主体として埋納したところ。写経供養の一形態で,古来,慈覚大師円仁(794-864)を創始者に擬しているが,確証はない。今日知られている最も早い確実な事例は,藤原道長が1007年(寛弘4)に金峰山(きんぷせん)(奈良)に埋納した例で,発見された経巻,経筒は《御堂関白記》の記事と一致している。埋めたのは紺紙金字の法華経(開結とも),阿弥陀経弥勒経,般若心経であるが,これらの経巻が竜華の晨,すなわち56億7千万年の後,弥勒が世に出る時まで伝えられることを念じている。また,願意として仏恩報謝,出離解脱極楽往生などがうかがえる。なお,これより早く,覚超の《修善講式》(989)には,経巻を卒堵婆の基に仏画や名帳とともに埋めることが記されているが,経巻を主体としていない。一方,中国には経塚と考えられる遺跡は未発見であるが,朝鮮半島では近時になってわずかながら高麗時代と思われる例が注意されはじめている。しかし,正確な年代,製作意図などは不明であり,現時点では,〈経塚は日本で10世紀の終りごろ,末法思想を背景に,浄土教の発達に伴う仏教的作善業の一種として始められた〉とするのが妥当な考え方であろう。その後1031年(長元4)に慈覚大師の如法経保存の手段として埋納のことが相談されたが,これを契機に経塚の営造は如法経書写供養と密接な関係を持つようになり,急速に全国に広まった。やがて願意にも現世利益,追善供養,災害防止などが加わったが,16世紀以降には廻国納経の流行に伴い,その一手段としても用いられた。江戸時代には礫石経(一字一石経)経塚が全盛を示したが,経塚は今日も営まれつづけている。

 経典は法華経が圧倒的に多く,無量義経,観普賢経阿弥陀経,弥勒経,般若心経などがこれに次ぐ。その他,大日経,金剛頂経,蘇悉地経,金光明経,仁王経,理趣経などもあり,大般若経,一切経といった大部の埋納例もある。材質面では紙本経が一般的であるが,埋めるという経塚の特色に即して,瓦経(粘土板に錐などで書いて焼いたもの),銅板経(銅板に刻したもの),滑石経,青石経(青石に刻したもの),貝殻経,礫石経などがある。これらのうち,紙本経は銅製の筒形容器(経筒)に納めて埋めることが多いが,木製,竹製,鉄製,石製,瓦製,陶製,磁製などもあり,また箱形もある。なお,ていねいな場合は,さらに外容器(外筒)に収めている。経典に副えて埋めたものには鏡,利器,合子,銭貨,仏像,図像,仏具,さらに檜扇,櫛,提子,小皿,硯,鋏,水滴,火打鎌,兜,鈴などがあるが,これらの組合せや数量は各経塚によって異なる。

各時代を通じて,社寺となんらかのつながりをもつ所,すなわち社寺境内やその近傍,あるいは霊地と目されている所を選んでつくられているが,一方,墳墓の近くや,江戸時代には路傍などにも営まれた。構造は一概には言い難いものの,小石室を構築したものと,単に土壙を穿ったのみのものとに分けられ,盛土,盛石をしているのが普通である。ほかに岩陰や岩窟など自然地形を利用した例もある。また,単独経塚と,同一地域内に複数の経塚が営まれた経塚群とがあり,後者には同時,または比較的短い期間をおいてつくられたものと,長期にわたって営まれたものとがある。おもな経塚は,福島県米山寺経塚,茨城県東城寺経塚,東京都白山神社経塚,山梨県柏尾山経塚,石川県笈岳(おいずるがたけ)経塚,静岡県伊豆山神社経塚,三重県朝熊山(あさまやま)経塚,滋賀県横川経塚,京都府鞍馬寺経塚,花背経塚,稲荷山経塚,奈良県金峰山経塚,和歌山県熊野三山経塚(本宮・新宮・那智),高野山経塚,粉河経塚,比井経塚,大阪府槙尾山経塚,鳥取県倭文(しどり)神社経塚,岡山県安養寺経塚,愛媛県奈良原山経塚,福岡県四王寺経塚,武蔵寺経塚,永満寺経塚,求菩提(くぼて)経塚,佐賀県背振山経塚など。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「経塚」の意味・わかりやすい解説

経塚
きょうづか

仏教経典を供養ののち地下に埋納して小規模の封土を設けたもの。埋納顕現の直接的目的は、末法思想に基づく仏法書の保存にあるが、それは弥勒(みろく)信仰によるものであった。中国においては天台宗二祖慧思(えし)(515―577)によって始められ、日本では慈覚大師円仁(えんにん)(794―864)により中国からもたらされたといわれている。その後、埋経は平安後期に隆盛を極めたが、多くは極楽往生(ごくらくおうじょう)、現世利益(げんぜりやく)などを目的とした阿弥陀(あみだ)信仰によっている。さらに追善、逆修(ぎゃくしゅ)を目的として営まれるものも現れ、経典の永劫(えいごう)への保存目的という本来の目的より離れて、しだいに供養者自身の願望と結び付いていった。

 埋納経典としては、『法華経(ほけきょう)』『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『阿弥陀経』『弥勒経』『般若心経(はんにゃしんぎょう)』『大日経(だいにちきょう)』『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』『理趣経(りしゅきょう)』などがある。これらの経典は、紙に書写された紙本経(しほんきょう)、瓦(かわら)に刻された瓦経(がきょう)、銅・石に刻された銅板経・滑石経(かっせききょう)、木に書かれた杮経(こけらきょう)、石に書かれた礫石経(れきせききょう)(一石に一字宛(あて)書かれた一字一石経)、貝殻の内側に書かれた貝殻経などがある。紙本経は経筒(きょうづつ)あるいは経箱に収納され、さらに小石室様遺構の中に埋置される例もある。そして鏡、刀子(とうす)などを悪魔除(よ)けとして添え、また銭貨、武器、装身具類などを奉賽(ほうさい)するものが多い。この紙本経は平安時代より室町時代にかけて認められるのに対し、瓦経、銅板経、滑石経は平安時代のみ、礫石経、貝殻経は室町時代以降にみいだされることが多い。平安時代の経塚は、寺院、神社の境内地あるいは霊地の眺望のよい丘陵上とか南・東斜面に営まれるのが一般的であり、さらに修験道(しゅげんどう)関係の金峯山(きんぶせん)、熊野、英彦(ひこ)山、白山(はくさん)などにも造営されている。また、室町~江戸時代の礫石経塚は、当時の集落に接する地より多くみいだされており、上部に石塔を造立しているものが多い。

[坂詰秀一]

『三宅敏之著『経塚論攷』(1983・雄山閣出版)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「経塚」の意味・わかりやすい解説

経塚
きょうづか

経典を主体に埋めた場所をいう。営造は 10世紀の終り頃,日本で発生し,現在も行われている。仏教的作善行為の一種で,当初は末法思想を背景に,弥勒菩薩が釈迦の入滅後 56億 7000万年して下生し,竜華樹の下で説法するときにそなえて,それまで経典を伝えたいという意図が含まれていた。しかし,そうした行為自体が作善であり,現世利益,極楽往生など一般的功徳が目的であった。平安時代末期から追善供養も加わり,鎌倉時代はほとんど追善供養のために営まれたといってよい。室町時代になると廻国納経と結びついて別な発展を見,江戸時代に引継がれるとともに,その目的もさらに多様になった。埋納経典は『法華経』が多く,経典書写の材質により,紙本経塚 (紙に書いたもの) ,瓦経塚 (粘土板に錐などで書いて焼いたもの) ,銅板経塚 (銅板に彫ったもの) ,滑石経塚 (滑石に刻んだもの) ,礫石経塚 (石に書いたもの) ,貝殻経塚 (貝殻に書いたもの) などに分けている。紙本経塚は各時期を通じて最も多く,礫石経塚は江戸時代に特に多い。なお,紙本経は通常経筒に納め,これを小石室に安置し,ほかに鏡,仏具,利器,銭貨などを合せ納めて土盛りや石積みをしたものが多い。

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百科事典マイペディア 「経塚」の意味・わかりやすい解説

経塚【きょうづか】

土中に小石室をつくり,経筒や経箱に経典を入れて埋納し,盛土をした塚。弥勒(みろく)出現のときまで経典を残すことを目的とする。後には極楽往生,現世利益を目的としてつくられるようになる。藤原道長が奉納した吉野の金峰山経塚(1007年造)が最古の例で,《御堂関白記》の記事と一致する出土があった。
→関連項目瓦経船木田荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「経塚」の解説

経塚
きょうづか

平安時代の末法思想により,仏教経典を書写し,仏法滅亡後の経典の消滅に備えて地下に埋納し,その上に小さな塚を築いた。経典はおもに紙本経で,他に瓦経(がきょう)・礫石(れきせき)経・銅板経・滑石経・貝殻経などがあり,金属・陶器・石・木などの外容器に入れ,地中に石組などの施設を造り,合子(ごうし)・刀子(とうす)・鏡・銭貨などとともに埋納。藤原道長が1007年(寛弘4)に造営した金峰山(きんぶせん)経塚(奈良県)は最も有名。鎌倉・室町時代になると極楽往生・現世利益の祈願にかわる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「経塚」の解説

経塚
きょうづか

経文を土中に埋めた塚
経を地下に埋め,末法の後までも伝えようとしたもの。平安中期に始まるといわれる。経を経筒に入れ,刀剣などとともに,地中に設けた石組などの施設に埋めた。藤原道長が1007(寛弘4)年大和金峰山 (きんぷせん) に埋納した経筒が有名。

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防府市歴史用語集 「経塚」の解説

経塚

 仏教の経典[きょうてん]を地下に埋め、土を盛ったものです。末法[まっぽう]の世に経典がなくなることをおそれ、末法が終わるまで保管することが目的でしたが、次第に極楽[ごくらく]に行けるようにというお祈りや死者の供養[くよう]目的に変わっていきます。

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世界大百科事典(旧版)内の経塚の言及

【塚】より

…そうした境が祭場とされる場合が多く,虫送りの行事で悪神を送り出す場所が虫塚,虫追い塚と称されるのもその一例である。このほか弥勒下生信仰,末法思想を背景として,法華経を書写し土中に埋めた経塚はよく知られている。古墳【宮本 袈裟雄】。…

※「経塚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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