船津伝次平 (ふなつでんじべい)
生没年:1832-98(天保3-明治31)
明治の農事指導者。三老農の一人(老農)。上野国勢多郡富士見村原之郷に生まれる。家は代々名主をつとめ,1858年(安政5)家督をつぎ農業に従事し,維新後地租改正御用掛などを勤めた。77年内務卿大久保利通に見いだされ,駒場農学校農場監督となり実習指導にあたった。85年農商務省農務局に転じ,巡回教師として全国各地で農事指導を行い,のち国立農事試験場技師となり,98年退職帰村している。西洋農学にも深い関心を持ち,在来農法と新農法との角逐の時代に,それぞれの長所を結びつける上で重要な役割を果たした。また老農の多くが天然の理に従うべきことを説いているなかで,動植物の性を率い従え,改良を加えていくことの重要性を主張する率性論の立場をとっていた。著作のうち《稲作小言》(1890)は著名で,ちょぼくれ口調で非合理的な稲作法を批判している。
執筆者:伝田 功
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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船津伝次平(ふなつでんじへい)
ふなつでんじへい
(1832―1898)
明治期の篤農家、農業技術者。上野(こうずけ)国勢多(せた)郡原之郷(はらのごう)村(群馬県前橋市)の生まれ。家は中流農家で、幼時から農桑業に従うとともに和算・暦学を学んだ。1857年(安政4)家を継ぎ、翌年名主、明治に入って大総代を務めた。1877年(明治10)大久保利通(としみち)の知遇を得、内務省御用掛となり、駒場(こまば)農学校、農商務省樹芸課、蚕業課に勤務、のち1893年国立農事試験場(東京西ヶ原)の技手となる。この間1885年農事巡回教師に任ぜられ全国を巡って農事指導を行った。彼は大農技術に反対して小農技術をもっぱらにした。七五調の「ちょぼくれ節」をつくり、農民にわかりやすく技術を説いた。著書・稿本は多く、『桑苗簾伏法』『太陽暦耕作一覧』『養蚕問答』『稲作小言』『選種法』など多岐にわたる。
[福島要一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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船津伝次平
ふなつでんじべい
[生]天保3(1832).10.1. 上野
[没]1898.6.15. 群馬
明治前期の篤農家。名主の家に生れた。幼名,市蔵。郷里の村役人として水害防止などに努めた。明治維新後,地租改正にあたり改正御用掛として尽力,1877年内務省御用係勧農局事務取扱となった。次いで駒場農学校 (東京大学農学部の前身) の農場監督として実習指導と農事の講義にあたり,のち農商務省技師として全国各地で講演,農事改良に努力した。中村直三,奈良専二とともに三老農と称された。主著『農家問答』『稲作小言』『里芋栽培法』『選種法』。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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船津伝次平 ふなつ-でんじべい
1832-1898 幕末-明治時代の農業指導者。
天保(てんぽう)3年11月1日生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)原之郷の名主。明治10年内務省にはいり,駒場農学校の農場監督をつとめる。19年農商務省にうつり,農事巡回教師として全国をまわる。中村直三,奈良専二とともに明治三老農と称された。明治31年6月15日死去。67歳。幼名は市蔵(造)。著作に「養蚕の教」「稲作小言」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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船津伝次平【ふなつでんじべい】
明治期の代表的な老農。上野(こうずけ)国の人。和算暦術に長じ,伝統農法の改良を推進。のち駒場農学校教師,西ヶ原農事試験場技師となり,米作養蚕中心の日本的農学の基礎を築き,和洋両技術を融合した混同農事を創始。著書《稲作小言》等。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内の船津伝次平の言及
【富士見[村]】より
…赤城山の山頂部からそのすそ野の南西部にわたって位置し,南は前橋市に接する。古くから養蚕が盛んで,明治初期には栽培技術の普及などに努めた篤農家船津伝次平が出ている。1969年に群馬用水が完成してからはホウレンソウ,ダイコンなどの野菜栽培や畜産が増えている。…
【老農】より
…また[農会]をつうじて老農の優れた経験的な技術の深化と普及が進むなど,明治農法の基礎が固まった。 著名な老農には,イネの品種改良や耕種改善に功のあった[中村直三]や[奈良専二],勧農社を組織して馬耕教師と抱持立犂(かかえもちたちすき)を全国にひろめた[林遠里],駒場農学校から農商務省の巡回教師となった[船津伝次平],勤倹力行を鼓吹した[石川理紀之助]などがおり,とくに中村,船津,奈良(あるいは林)を明治三老農という。しかし老農も,90年代に農科大学や農事試験場などが整備され,近代的な輸入農学が消化されると,しだいに活躍の場も狭くなっていった。…
※「船津伝次平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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