若杉村(読み)わかすぎむら

日本歴史地名大系 「若杉村」の解説

若杉村
わかすぎむら

[現在地名]小松市若杉町

南東の山地から北西に広がり、北は八幡やわた村、西は白江しらえ村・打越うちこし村。元徳元年(一三二九)と推定される一二月三〇日のかうけん書状案(石清水文書)に「やわた・わかすぎ・よなまる三人の分」とみえる。これらは加賀国八幡宮神主職などを勤めた橘氏の一族が所領の地名を名字として名乗ったと判断される。永享九年(一四三七)万寿まんじゆ(現京都市東山区)の加賀国の所領四ヵ所の一つに若杉庄がみえる(「蔭涼軒日録」同年一二月一四日条など)


若杉村
わかすぎむら

[現在地名]上市町若杉

上市村の北、上市川扇状地の中央部に位置し、東は三日市みつかいち村、西は若杉新村町新庄まちしんじよう(現富山市)と上市村を結ぶ上市往来が通る。かつて当地にあった若杉五社明神は大宝二年(七〇二)越中守佐伯有若が建立したと伝える。昔は社殿が多数あり、拝殿・惣門・神供所や社家・社僧の住居があり、社領三千俵であったが、戦乱により衰退し、神人・社僧も退転し、ようやく一家だけが残ったという(越中志徴)


若杉村
わかすむら

[現在地名]大屋町若杉

中間なかま村の南、大屋川支流若杉川の流域にある。南は藤無ふじなし(一一三九・二メートル)を境に播磨国宍粟郡公文くもん(現一宮町)、西は若杉峠を境に同郡道谷どうだに(現波賀町)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「わかす」とみえる。近世領主変遷大屋市場おおやいちば村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では大屋庄高九八七石余のうちに含まれて高付されていたと思われる。


若杉村
わかすぎむら

[現在地名]福井市若杉町・若杉浜わかすぎはま一―三丁目

福井城下西方、足羽山の西麓にあり、北は足羽川。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高一〇〇九・七五七石。正保郷帳によると、田方三八九石余・畠方六七九石余。福井藩領。

天平神護二年(七六六)一〇月二一日成立と推定される越前国足羽郡道守村開田地図(正倉院蔵)によると、道守ちもり村の東北部に当村域が含まれ、東部山地を加夫田山と記し、山麓に神社が描かれている。同月一〇日付足羽郡司解(東南院文書)に「受生江川水従三重田神社北、応堀開如件」とある生江いくえ川は足羽川なので、開田地図の神社はこの「三重田神社」と思われるが確実ではない。


若杉村
わかすぎむら

[現在地名]大島町若杉

中野なかの村の南西、塚原つかはら用水右岸に位置し、中野村の北に飛地神田じんでんがある。村の南部を東西草島くさじま(現富山市)への道が通る。正保郷帳に村名がみえ、高二五三石余、田方一四町一反・畑方二町八反余、ほかに新田高四五石。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三一五石、免四ツ一歩(三箇国高物成帳)。その後延宝二年(一六七四)の畑直高一二石余、享保一七年(一七三二)の手上高二石余、寛保二年(一七四二)の手上高三石が加わった(「高免等書上帳」折橋家文書)


若杉村
わかすぎむら

[現在地名]篠栗町若杉

若杉山(六八一メートル)の北西麓に位置し、かつては谷とよばれた(→若杉山北東篠栗村。小早川時代の指出前之帳では若杉村の田二二町六反余(分米二三四石余)・畠一一町九反余(分大豆六六石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高二六三石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高二七四石余、家数四〇・社一、人数三〇四(田圃志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android