埼玉県南東部,綾瀬川沿いの低地にある市。1958年市制。人口24万3855(2010)。江戸時代は日光道中(現,国道4号線)の宿場町として栄えた。江戸時代に開発された新田が多く,現在の清門町,長栄町の旧名は清右衛門新田,長右衛門新田である。草加せんべい,ゆかた染,なめし革などの特色ある地場産業で知られていたが,1899年東京浅草からの東武伊勢崎線開通後も穀倉地帯の地方町であった。しかし都心から20km圏にあるので,1962年の住宅公団草加松原団地(6000戸)への入居開始,66年の地下鉄日比谷線と東武線との相互乗入れ,67年の草加工業団地の造成などにより,住宅や工場が激増し,人口は1960-70年に3.2倍に,70-95年に1.8倍に増加した。紙・パルプ工場などが進出し,工業用水の需要が増えたので,地盤沈下を防ぐため,1964年から県営東部第1工業用水道が中川の表流水を市内の柿ノ木浄水場で処理して工場へ配水している。しかし大雨が降ると,松原団地一帯は湛水の害に悩まされる。88年の東武伊勢崎線の高架複々線化,92年の東京外環自動車道の開通によって,市内の交通渋滞も緩和された。
執筆者:新井 寿郎
日光道中第2次の宿場で,江戸から約4里。宿組は宿篠葉,谷古宇,与左衛門新田,弥惣右衛門新田,立野,原島,吉笹原,北草加,南草加の9ヵ村によって構成され,街道に沿って町並みが造成された。古くは武蔵国足立郡谷古田領のうちにあって,綾瀬川に沿った沼沢地帯であったが,宿篠葉の大川図書が村民とはかってカヤで道路を造成,鷹狩に来た徳川家康が,草も役に立つとして草加と名付けたと伝える。1630年(寛永7)千住と越ヶ谷の中間の宿として正式に宿場に指定されたという。伝馬宿として整備が進むにつれ,5と10の日に六斎市が開かれ,近郷商圏の中心になった。1843年(天保14)調べの《宿村大概帳》では戸数723戸,人口3619人(この数は宿組各村の農家を含めたものとみられる),旅籠屋は本陣・脇本陣を含め69軒を数えた。町内は1~6丁目に区分され,問屋を兼帯した名主が4人,年寄が6人で交代で伝馬業務を担当した。江戸時代を通じて幕府領,沖積平地の一角で米穀の産地として知られた。明治以降,宿場機能は失われたが商業都市として存続,1875年の戸口は457戸,2220人であった。なお日光旧街道で松並木が残っているのは埼玉県内ではここだけである。
執筆者:本間 清利
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
埼玉県南東部にある市。市域の南部は東京都足立(あだち)区に隣接する。1958年(昭和33)市制施行。2004年(平成16)特例市に移行。中川流域の沖積地域で、自然堤防と低湿地とからなる。東武鉄道伊勢崎(いせさき)線が通じ、国道4号、298号が通り、東京外環自動車道の草加インターチェンジがある。市街地は自然堤防上に位置し、江戸時代は奥州街道の宿場町として栄え、5、10の日には市(いち)が立った。街道の綾瀬(あやせ)川沿いに松並木が残っている。かつては県東部の穀倉地帯の一角を担っており、名物の「草加煎餅(せんべい)」もこの地方産のくず米の使用が起源だといわれる。
都心から20キロメートル圏にあるため、都市化が進み、1963年の松原団地の造成、1966年の営団地下鉄日比谷(ひびや)線(現、東京地下鉄日比谷線)の乗り入れを契機に、住宅が急増した。また工業は、1960年代に草加および草加八潮(やしお)工業団地の造成により、紙、パルプ、薬品、ゴム、油脂などの大工場が誘致され、中小工場も増加し、県内第8位の製造品出荷額(2018)を示している。この結果、市の人口は急増し、地盤沈下等の公害もおこっている。草加駅東口や谷塚(やつか)駅周辺では、駅ビルや高層ビルが建設され、再開発が進んでいる。独協大学の所在地。面積27.46平方キロメートル、人口24万8304(2020)。
[中山正民]
『『草加の歴史』(1963・草加市)』▽『『草加市史』全10巻(1985~2001・草加市)』
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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