草野村(読み)くさのむら

日本歴史地名大系 「草野村」の解説

草野村
くさのむら

[現在地名]飯舘村草野

東流から南東流へと流れを変える新田にいだ川北岸に位置し、枝郷として西に伊丹沢いたみざわ村・深谷ふかや村、さらにその西に松塚まつづか村がある。草埜とも記す。明暦二年(一六五六)に前記三ヵ村および関根せきね村を分村(相馬藩政史)。天保郷帳には「古者 草野村・松塚村・深谷村・伊丹沢村四ケ村」と注記される。中世には草野および千倉ちくら庄北草野村の地名が区別されてみえ、ともに当地およびその周辺に比定される。草野については、延文三年(一三五八)一一月二〇日の相馬親胤譲状(相馬文書)に「草野内関沢山」とみえ、親胤の子息胤頼に譲られている。貞治六年(一三六七)八月二三日には、草野のうちの関沢せきさわが胤頼の子息憲胤に譲られた(「相馬胤頼譲状」同文書)。なお正平七年(一三五二)三月二四日の吉良貞家軍勢催促状(同文書)に「草野通率一族、可被攻田村庄」とみえ、宇津峰うづみね(現須賀川市)に籠城した南朝方の北畠顕信を攻めるため、相馬親胤に田村たむら(現田村郡)攻めが命じられているが、当時草野には相馬氏の一族が居住していたとみられる。


草野村
くさのむら

[現在地名]伯太町草野

十年畑じゆうねんばた村の南西に位置し、西は東比田ひがしひだ(現広瀬町)、南は伯耆国。江戸時代は十年畑村の枝郷で、近代に入って独立村となった。伯太川の水源にあたる水木原みずきはら(約七三五メートル)は草野山ともいう。「出雲国風土記」意宇おう郡の条に伯太川の源は仁多にた郡と意宇郡の境である葛野かどぬ山より出るとあるが、この山が草野山のことである。一説には葛と草を混同した誤りともいう(大日本地名辞書)。十年畑村から草野への九折坂の山道を登ると東比田村との境だと「出雲国風土記鈔」にある。


草野村
くさのむら

中世の山本郡内の地名で、草野氏の本拠地。草野氏系図(九州大学文学部蔵草野文書)によると、草野永経が長寛二年(一一六四)に肥前高木たかき(現佐賀市)から草野吉木よしきに入部したという。永経の子永平は源平の争乱に際し反平氏の立場をとり、文治二年(一一八六)に源頼朝の推挙によって本職である筑後国在国司職・押領使を安堵された(「吾妻鏡」同年閏七月二日条)。寛喜三年(一二三一)三月三日の紺紙金泥阿弥陀経裏書(古写経)に「草野荘」とみえる。貞和三年(一三四七)四月二日の少弐俊守・川尻幸俊連署感状写(河津伝記下/南北朝遺文(九州編)七)によると「筑後国草野財部之者共」が謀反を起こしたが、河津祐季らにより鎮圧された。


草野村
くさのむら

[現在地名]行橋市草野・行事ぎようじ七―八丁目

行事村の西に位置し、北端を流れる小波瀬おばせ川と南端を流れる長峡ながお川の間の平野部に立地する。西は下津熊しもつのくま村・長音寺ちようおんじ村。中世の草野庄の遺称地。主集落はもと字殿小路にあったが、文化三年(一八〇六)耕耘の便利な現在地に移ったという(京都郡誌)。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高七七七石余、家数七四・人数一三九(うち百姓二二・名子九)、牛一六・馬四。郷村高帳では高六八六石余、うち新田高七一石余。旧高旧領取調帳では高六六六石余。江戸時代初期には長音寺村を含んでいたが、寛文九年(一六六九)までに分村した(草野正八幡神社蔵棟札)


草野村
くさのむら

[現在地名]篠山市草野

油井あぶらい村の南東に位置し、武庫むこ川に八王子はちおうじ川が流れる。南北路は大坂に通じる道で、草野坂・日出ひで坂がある。油井村から分立したという。応永三一年(一四二四)の丹波国篠村八幡宮造営段銭京済分注文(醍醐寺文書)に草野村とみえ、一一町二反余・分銭八貫九六九文であった。「丹波志」に酒井さかい庄のうちとして「草野」とみえ、油井村の枝郷で、高一三二石余。


草野村
くさのむら

[現在地名]小松市草野町・浜佐美本町はまさみほんまち

かけはし川左岸河口近くにあり、北は安宅あたか町、東は浮柳うきやなぎ村、西は砂丘を隔てて日本海。もとは安宅町地内で、安宅草野と称した。この草地の開発は、元禄年間(一六八八―一七〇四)に安宅村からの採草地がなくなるとの反対を押しきって始められた。享保年間(一七一六―三六)能美郡内外から移住者があり草野開という開墾地が成立した。当初は安宅新村の枝村であったが、天保一〇年(一八三九)独立、高四二四石余(小松市史)


草野村
くさのむら

[現在地名]中条町草野

村央を柴橋しばはし川が南西へ流れ、南西は柴橋村に接する。万治二年(一六五九)検地帳(五十嵐一男氏蔵)によれば高一〇九石六合・田八町二反・畑一町四反八畝余で屋敷はない。元禄郷帳には柴橋村枝郷として記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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