日本古代の軍事官職の名称。押領は引率するという意味であり,押領使は兵員を引率して戦場に向かうことを職掌とした政府直属の官職である。初出は平安時代初頭の792年(延暦11)のことで,いわゆる令外官であった。平将門・藤原純友の乱のときにこれを鎮圧する官職として活躍したことが知られるが,このころより以後常置となり,しかも政府直属ではなく,地方国衙所属として文献に見えている。元来は政府直属であったものが,地方の治安の乱れにともなって国衙にもこの職が設置され,諸国の治安の維持にあたった。この場合,追捕使(ついぶし)などと同じく多くは地元の有力土豪が任命され,彼らはその配下の武士たちを率いて活動している。のちには荘園にも押領使が設置されている。また腫物(はれもの)の一種に押領使という異称があったが,そのもっていた権力が強すぎたので忌み嫌われ,腫物の義になったものと思われる。なお,鎌倉幕府の守護(惣追捕使)は押領使が発展したものとも考えられている。
執筆者:井上 満郎
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平安時代に設置された令外官(りょうげのかん)。初めは兵員を統率して戦地に向かうことを職掌とし、のち実戦にあたり、また地方の治安の維持にもあたった。史料上の初見は795年(延暦14)で、9世紀後半の蝦夷(えぞ)との戦闘にも活躍している。本格的に実戦に参加したのは承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱(935~941)のときであり、下野(しもつけ)国押領使藤原秀郷(ひでさと)は乱の政府側勝利の原動力となった。このころから各国に個別に置かれ始め、常置の職として国内の治安の確保にあたった。その国の国司が兼務する場合と、土豪が任命される場合とがあったが、後者が一般的となった。また荘園(しょうえん)にも押領使が置かれ、荘園内部の検察などにあたったようである。鎌倉幕府の総追捕使(そうついぶし)(守護)は、名称のうえでは追捕使を受け継いでいるが、職掌のうえでは押領使とつながるところが多い。
[井上満郎]
『井上満郎著『平安時代軍事制度の研究』(1980・吉川弘文館)』
10世紀以降,諸国におかれた凶党の追捕機関。追捕使と同じく国司が国解(こくげ)で国内有力武士を推挙し,官符で任命される。武装蜂起(凶党)が発生すると,国司は太政官に報告して追捕官符をうけ,それにもとづいて押領使は凶党の規模に応じて国内武士を動員し,凶党集団を追捕。押領使は東国・山陰・西海道諸国,追捕使は畿内近国・山陽・南海道諸国という分布傾向があるが,坂東諸国の場合,受領(ずりょう)が押領使を兼帯した。押領使は,9世紀末~10世紀初頭の東国の乱,つづく平将門(まさかど)の乱に関係諸国に臨時におかれたが,10世紀中葉以降,常置された。
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…《続日本紀》天平宝字3年(759)11月辛未条に,〈国別ニ二千已下ノ兵ヲ差発シ,国司精幹ノ者一人ヲ択ミ,押領セシメテ速ニ相救援セヨ〉とある。のちの押領使という官職は,この意味での押領からきている。 元来漢語の〈押〉には,〈おす〉のほか,〈とりしまる〉〈たすける〉などの意味があり,〈強いる〉という意味はほとんどなかったが,日本の古代語の〈おす〉には〈強いる〉意味があり,この言葉に〈押〉の漢字があてられたところから,日本語で用いる〈押〉には強制的なニュアンスがこめられるようになった。…
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