荒沢村(読み)あらさわむら

日本歴史地名大系 「荒沢村」の解説

荒沢村
あらさわむら

[現在地名]下田村荒沢

五十嵐いからし川中流左岸の第三・第四段丘面に立地し、森町もりまち村の対岸に位置する。明応年間(一四九二―一五〇一)の国衙之日記(「古文書集」所収文書)に「あらさわ」の地名がみえる。正保国絵図では高一七〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では一三一石四斗余・家一六戸。文化一一年(一八一四)森町組家数書上帳(金子泰夫氏蔵)では家数四三、ほかに肝煎組頭地足軽四。明治五年(一八七二)北五百川きたいもがわ長崎ながさきから出された新規通船拵立願書(藤田稔氏蔵)によると、田屋たや永島ながしま新田森町もりまち三ヵ村とともに船株を形成していた。


荒沢村
あらさわむら

[現在地名]朝日村荒沢

蔵王ざおう山の北方の山間にあり、荒沢川が南流して高根たかね川に注ぐ。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分あら沢村」とみえ「(家)合弐間」とある。近世は村上藩領、のち幕府領となり、幕末には米沢藩預所。正保国絵図では高三〇〇石余。元禄四年(一六九一)検地帳(板垣家文書)によれば、総計は田八町四反八畝余・畑二町四反四畝余で、名請人は二一名。畑方のうち約半分を山畑が占める。元文五年(一七四〇)には山畑は一反七畝余で字とちの木・ミなミ山にあった(「覚」同文書)。この山畑に同年五月三日、小須戸こすど村の百姓がすきをみて大勢で入込み、当村の耕地をまき取ったとして訴状(同文書)が出されている。


荒沢村
あらさわむら

[現在地名]黒川村下荒沢しもあらさわ

高坪たかつぼ東麓、下荒沢川が霧出きりで(現鍬江沢川)に注ぐ谷間にある。南東は持倉もちくら村、西は須巻すまき村に接する。元徳三年(一三三一)の海老名忠顕と和田(黒川)章連との相論では、忠顕方は「荒沢」など四ヵ所を望倉もちくら(持倉)のうちであるとし、章連方は長谷ながたにのうちと主張している(同年一二月一九日「鎌倉幕府引付頭人(北条俊時)奉書」三浦和田氏文書)。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領、享保九年(一七二四)以降黒川藩領。


荒沢村
あらさわむら

[現在地名]朝日村荒沢

大鳥おおとり村の北方、大鳥川上流域に位置し、東方に枝郷の鱒淵ますぶち村がある。南朝の将北畠顕信に従った武士が居住したとの伝承があり(大鳥村外創村旧記)、また田沢たざわ城の出城とみなされる中世の荒沢館跡がある。戦国時代末期、直江兼続によってつくられたという朝日軍道は、鱒淵を経て朝日岳を尾根伝いに置賜おきたま郡まで続く山岳道路で、一説には大浦おおら(現鶴岡市)に拠った武藤氏による開設ともいう。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では荒沢鱒淵村とみえ、高七八石余。正保郷帳では田高六四石余・畑高一四石余、ほかに社領(荒沢明神領)高四石余。


荒沢村
あらさわむら

[現在地名]小国町荒沢

樋野沢ひのさわ村・中島なかじま村の北、南流する折戸おりと川沿いにある。検討の余地が残るが天正一六年(一五八八)四月七日の某充行状写(斎藤文書)に「あらさハ」とある。同様の同一九年七月九日の某(上郡山盛為か)充行状写(同文書)では「荒沢之内おりと」とみえる。正保郷帳に村名がみえ、田高一一石余・畑高八石余。北接する折戸村を経て三面みおもて川上流の越後岩船いわふね郡の村々とを結ぶ街道に貞享三年(一六八六)番所が置かれた。当村の百姓次右衛門宅を役宅として小国扶持方より二名ずつが五日交替で勤務したが、のち次右衛門家困窮により役宅は折戸(入折戸)村勘兵衛宅に移転した(正徳元年「勘兵衛書状」小国町史)


荒沢村
あらさわむら

[現在地名]新発田市上荒沢かみあらさわ

溝足みぞおし村の東北、櫛形くしがた山脈の山中谷間にあり、現新発田市域最北端に位置する。はじめ村上藩領で、正保国絵図に村名がみえる。万治二年(一六五九)の検地帳(新発田市史資料)によると蔵光組に属し、田九町九反余で一二八石五斗余、畑二町七反余で一三石九斗余。のち幕府領を経て享保九年(一七二四)黒川藩領となる。翌一〇年の指出帳(新発田市史資料)は高一五九石八斗余とし、田九町九反余・畑屋敷七町二反余。見取田畑が九反余ある。


荒沢村
あらさわむら

[現在地名]矢島町荒沢

子吉こよし川の支流荒沢川に沿い、北は城内じようない村と接する。

慶長一五年(一六一〇)の新沢中村帳(矢島町史)に本田三千二〇六束二把刈、この米四五石五斗五升六合九勺とあり、居屋敷は一一軒。同一七年の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に新沢村とある。

正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)に一五〇石七斗五升六合。宝暦六年(一七五六)の御領分中覚書(矢島町史)では本田高三四七石八斗三升八合、新田高四〇石三斗一升七合、家数七一軒、人数三〇七人とある。


荒沢村
あらさわむら

[現在地名]鶴岡市大荒おおあら

大戸おおと村の北西に隣接し、水上みなかみ山の東麓にある。北は上京田かみきようでん村。正保郷帳に村名がみえ高三八石余、うち田高三六石余・畑高一石余、新田がある。弍郡詳記では高四一石余、免四ツ四分四厘、家数六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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