荒町村(読み)あらまちむら

日本歴史地名大系 「荒町村」の解説

荒町村
あらまちむら

[現在地名]本荘市小友おとも 荒町

子吉こよし川東岸の平野部に位置し、東南万願寺まんがんじ村、西は子吉川を境として宮内みやうち村・玉の池たまのいけ村、東北は三条さんじよう村・大沢おおさわ村と接する。

元弘三年(一三三三)八月二四日付の小早川性秋あての出羽国衙からの所領安堵状(小早川家文書)にみえる「由利郡小友村」、また正平一三年(一三五八)八月三〇日付北畠顕信寄進状(大物忌神社文書)の「小石郷乙友村」はこの地方をさすと思われる。小吉郷小友村は鎌倉初期以来この地にあった由利孫五郎惟方の所領であったが、元弘三年に小早川氏の所領として確認されている。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に新町あらまち村一八七石とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳も一八七石七斗八升六合と変わらない。


荒町村
あらまちむら

[現在地名]三条市荒町一―二丁目・石上いしがみ一丁目・ほん町六丁目・西裏館にしうらだて一丁目

裏館村の西、三条町の北に位置し、西を信濃川が流れる。一帯はかつて三条の城下に包含されていた地域で、地字に殿田とのだ北屋敷きたやしき・南屋敷・寺浦てらうらなどが残ることや、村名が初期「新町村」だったことから三条城の廃城後、大規模に開発された村とみられる。正保国絵図に「新町村」一八六石余とみえ幕府領


荒町村
あらまちむら

[現在地名]河北町谷地やち

谷地の南部にあり、北は前小路まえこうじ村、南は新町しんまち村枝郷高関たかぜき、西は新町村に続く。支配は元和八年(一六二二)上山藩領、寛永四年(一六二七)幕府領、天保一三年(一八四二)山形藩(秋元氏)領となり、弘化二年(一八四五)以後上野館林藩領。元和八年の高一千六七石(西村山郡史)、延宝五年(一六七七)の最上拾ヵ領村々田畑高辻帳(河北町立図書館蔵)では田高九三八石余・反別三一町九反余、畑・屋敷高二八石余・反別二町九反余、ほかに新田畑高二石余・反別三反余。天明八年(一七八八)の村山郡御料所村々高帳(同館蔵)には尾花沢代官所支配として九六九石余とある。上・中・下の三組に分れ、それぞれに市神が安置され、四八市とよばれる六斎市が年送りに立てられた。


荒町村
あらまちむら

[現在地名]豊浦町荒町

西は切梅きりうめ村、南は多斎ださい新田。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に「荒町村・佐渡川村・長徳寺村」とあって四四八石四斗五升と記される。同四年の御判物之写(北方文化博物館蔵)には「当秋年貢定之事」として六斗とある。同一二年の給人開田方定納之帳(新発田市史資料)には「荒町之内 二町六段小拾三歩三尺 半介」とある。同一七年の御蔵納同払方帳(同資料)によれば八七石一斗余が藩の蔵入地。正保国絵図には二四〇石余とあり、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によれば五十公野組に属し、家数四〇・人数二七三。


荒町村
あらまちむら

[現在地名]高遠町大字藤沢ふじさわ

藤沢川の左岸谷底平野街道に沿って発達した村。対岸だい村、南は北原きたばら村、北は水上みずかみ村、東は山で芝平しびら村と接する。

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は中、村高は「六百拾石弐斗九升三合 新町」とあるのが初見である。


荒町村
あらまちむら

[現在地名]松本市里山辺 荒町

新町あらまち村とも書く。新井あらい村から分れたものである。東南は兎川寺とせんじ小松こまつに接し、西北は新井に接している。

寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳には「弐百三拾弐石八斗六升三合 新町村」とある。


荒町村
あらまちむら

[現在地名]上越市荒町

高田城下の南に接し、北国街道(信州街道)の口にあたる。江戸中期頃までは新町しんまち村といい、天保郷帳に「古者新町村」の注がある。正保国絵図には新町村とみえ高二二四石余。延宝七年(一六七九)越州四郡高帳では三二四石七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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