日本歴史地名大系 「新町村」の解説
新町村
しんまちむら
新町村
じんまちむら
新町村
しんまちむら
糸島半島西部、
新町村
しんまちむら
- 大阪府:羽曳野市
- 新町村
石川左岸の東高野街道より東へさらに傾斜した低地にある。対岸は
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
- 奈良県:五條市
- 新町村
吉野川北岸、紀州街道五条村―
慶長一五年一二月一一日の「覚」(柏田家文書)には次のように記す。
このことから当時新町が成立していたと考えられる。元和九年(一六二三)の新町村屋敷割帳(柏田家文書)には「慶長十一乙午年、松倉豊後守御守護之時、五条高三石九斗六升五合、二見高拾五石六斗七升四合、合十九石六斗三升九合之高地ヲ分、初而九十三軒之町屋取立之云々」とも、また「新町之儀者、慶長年中松倉豊後守様同郡二見村御在城之砌、御取立之町場ニ而御高并諸役御赦免被成下云々」ともいわれ、ここに高すなわち地子の免許が行われた。
新町村
あらまちむら
- 新潟県:長岡市
- 新町村
長岡城下神田町の北に接続し、
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
新町村
あらまちむら
新町村
あらまちむら
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
- 愛知県:新城市
- 新町村
新城町の東に、
新町村
しんまちむら
親村は山麓に近い鶉井や神戸で、天正六年(一五七八)の上諏訪大宮同前宮造宮帳に、
とある。正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻には「高弐百弐拾六石 新町村」とみえる。
伊那往還沿いの村で、元和三年(一六一七)宮木村を北に隔てた
新町村
しんまちむら
新町村
あらまちむら
新町村
あらまちむら
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
出羽丘陵東端、雄物川の支流新町川の左岸に位置する。村内を
とあり、最上氏の支配を受ける。高寺は藩政期には新町村支郷として現れるが、中世までは当村の中心地であったものと思われる。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に新町のうち
宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では、高は本田二八三石二升八合、新田二八〇石一斗二升三合、合計五六三石一斗五升一合(当高五四三石二斗四升三合)。
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
現大西町の中心部に位置する。東は
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
新町村
あらまちむら
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
竹野川の右岸、中郡平野の東側を通る
峯山明細記によれば戸口は七八軒、三四一人(男一六八人、女一七三人)。当村は街道筋に位置し、また峯山町に近かったため、公儀で役人が通行する際には配符(分担表)に従い人足を差し出し、大坂御加番御勤めの時の供人は、新町村が取りしきって峯山領分に村高に応じて割りふった(同書)。
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
- 東京都:世田谷区
- 新町村
弦巻村の南にあり、
新町村
あらまちむら
- 新潟県:糸魚川市
- 新町村
新町村
あらまちむら
新町村
しんまちむら
- 鹿児島県:国分市
- 新町村
新町村
しんまちむら
新町村
しんまちむら
新町村
あらまちむら
新町村
しんまちむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報