デジタル大辞泉
「菟道稚郎子」の意味・読み・例文・類語
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うじのわきいらつこうぢのわきいらつこ【菟道稚郎子】
- 応神天皇の皇子。「日本書紀」では、応神天皇四〇年に太子に立てられたが、天皇の死後、兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)に皇位を譲るため、自殺したとされる。
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菟道稚郎子 (うじのわきいらつこ)
応神天皇の太子。母は和珥(わに)氏の宮主宅媛(やかひめ)(《古事記》では矢河枝比売(やかわえひめ))。天皇の死後,儒教思想によって兄の仁徳天皇に位を譲り死ぬ。和珥氏は他の豪族と異なり采女(うねめ)貢上の伝承をもつ(雄略天皇妃の童女君など)。また和珥氏の伝承は王権交替期に多く現れる。《古事記》で矢河枝比売は和珥氏伝承の服属の寿歌を歌い,御酒を献じて天皇の妃となる。この話は和珥氏の貢女伝承をもとに作られ,太子は仁徳天皇を顕彰するために置かれた人物であろう。
執筆者:吉井 巌
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菟道稚郎子
うじのわきいらつこ
4世紀頃の皇子。父は応神天皇。仁徳天皇の弟にあたる。幼少の頃から書物に親しみ,百済の阿直岐,王仁などを師に迎え,典籍に通じた。応神天皇に非常に愛され,その 40年に兄大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が,天皇の問いに答えて「いまだ成人せぬ少子は最もかなし」と薦めたことにより,兄をおいて皇太子となった。翌年父天皇の崩御により即位することとなったが,彼はひたすらに兄の大鷦鷯尊(仁徳天皇)を推し,このため空位 3年に及んだ。皇子は苦悩の末に自殺して,仁徳天皇の即位を促したとされる。その墓所は菟道宮,宇治墓といい,京都府宇治市丸山にある(→宇治上神社)。
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菟道稚郎子
うじのわきいらつこ
生没年不詳。応神(おうじん)天皇の皇太子。母は和珥臣(わにのおみ)の祖日触使主(ひふれのおみ)の女宮主宅媛(むすめみやぬしやかひめ)(『古事記』では矢河枝比売(やかわえひめ))。百済(くだら)から来朝した阿直岐(あちき)、ついで渡来した王仁(わに)についてもろもろの典籍を学び、通達せざるなしといわれた。天皇は長子大山守命(おおやまもりのみこと)、中子大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)よりも弟の菟道を愛し、後嗣(こうし)にしようとした。天皇の崩後、菟道は大鷦鷯に位を譲ろうとし、互いに譲り合い、その間、位をねらう大山守を大鷦鷯が殺した。菟道は自殺して大鷦鷯に譲ったため、大鷦鷯が仁徳(にんとく)天皇として即位した。
[横田健一]
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菟道稚郎子
生年:生没年不詳
応神天皇の皇子。母は和珥氏の宮主宅媛。『日本書紀』によると,百済から来日した阿直岐,王仁に学んで漢籍に通暁し,高句麗王の手紙を読んでその無礼を咎めたという。父応神に特に愛され,兄たちをさしおいて太子になったが,父の死後,兄(のちの仁徳天皇)に位を譲る。しかし兄も固辞して受けず,譲り合いが3年にもおよんだので,ついに自殺して兄を位に就けたという。儒教的聖君子として描かれている。しかし一方この皇子には,皇位を奪おうと兵をあげたもうひとりの兄大山守皇子を,策略を使って討ち取る話も伝えられている。宇治市の宇治上神社は皇子の居住した宮跡と伝える。『万葉集』巻9人麻呂歌集中に挽歌がある。
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菟道稚郎子【うじのわきいらつこ】
伝承の人物。〈わかいらつこ〉とも読む。応神天皇の皇子。阿直岐(あちき),王仁(わに)らに典籍を学ぶ。また兄の仁徳天皇に皇位を譲るため自殺したという。
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菟道稚郎子 うじのわきいらつこ
記・紀にみえる応神天皇の皇子。
母は宮主宅媛(みやぬしのやかひめ)。百済(くだら)(朝鮮)からきた阿直岐(あちき),王仁(わに)にまなぶ。天皇に愛され皇太子となる。天皇の死後,兄の大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)(仁徳天皇)に位をゆずろうとし,ゆずりあうこと3年,ついに自殺して兄を即位させた。「古事記」では宇遅能和紀郎子。宇治若郎子ともかく。
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菟道稚郎子
うじのわきいらつこ
生没年不詳
大和時代,5世紀ころの皇族
応神天皇の皇子。百済 (くだら) からの渡来人阿直岐 (あちき) ・王仁 (わに) について初めて経典(儒教)を学んだ。皇太子となったが異母兄大鷦鷯尊 (おおささぎのみこと) (のちの仁徳天皇)に皇位を譲るため自害したという。
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