菩提村(読み)ぼだいむら

日本歴史地名大系 「菩提村」の解説

菩提村
ぼだいむら

[現在地名]美原町菩提、堺市菩提町一―五丁・引野ひきの町一―三丁など

八上やかみ郡に属し、西大饗にしおわい村の北にある。古くは東西の大饗村とともに大饗村を構成した。集落南の西大饗村との錯綜地に国分東・国分池・国分上の字名がある(→大饗村。天平年間(七二九―七四九)光明皇后によって同地に河内国分尼寺が創建されたとする伝承があり、開基の天竺僧菩提仙那にちなんで地名が生じたといい、寺は明徳の乱で廃絶、残った一支坊が当村宝珠ほうじゆ院であると伝える(大阪府全志)。国分池周辺からは、奈良時代後期から鎌倉時代にかけての瓦が出土する。

正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高五三八石余、うち二五七石余が幕府領、二八一石余が大坂町奉行久貝正俊領。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では幕府領分は変わらず、二八一石余が大坂町奉行石丸定次与力領(寛文三年―延宝七年)。天和元年(一六八一)の河州各郡御給人村高付帳では幕府領分は変化なく、二八一石余は大坂町奉行設楽貞政領。


菩提村
ぼだいむら

[現在地名]秦野市菩提

北は丹沢たんざわ山中のとうに連なり、南は曾屋そや村、東は葛葉くずは(当村では菩提川)を境に羽根はね村、西は横野よこの村・戸川とかわ村に接する。葛葉川はさんとう水源とし延長七・五キロ。秦野盆地の北から南東に流れる。下流東田原ひがしたわら・曾屋付近では浸食蛇行が最も激しく、曾屋村で金目かなめ川に注ぐ。寛永一八年(一六四一)の丹沢御林伐荒につき煤ヶ谷村訴状ならびに対決差紙(県史六)に「ぼたひ村」とある。

近世は初め幕府直轄領、寛文三年(一六六三)幕府直轄領と旗本戸田・辻領の三給、元禄一一年(一六九八)六浦藩領。同年一一月の支配替の地書上(秦野市史二)によると、横野村の二五石、家一二軒が当村へ編入された。


菩提村
ぼだいむら

[現在地名]勝山町松田まつだ

下田しもだ村の南に位置し、飯岳いいだけ(大坂山)の北東麓に集落が形成されている。村内に八世紀後半の創建と推定される菩提廃寺(県指定史跡)がある。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高二七六石余、家数三七・人数四五(うち百姓四・名子二・鍛冶一)、牛四・馬三。郷村高帳では高二八七石余、うち新田高一二石余。旧高旧領取調帳では高二八六石余。明治三年(一八七〇)の人別改帳(竹内家保管文書)によると家数二六・人数九六。往時、村内に菩提山四九院と称されるほどの伽藍があったというが(太宰管内志)、戦国期の兵火で焼失したと伝える(兵火を免れたとの説もある)


菩提村
ぼだいむら

[現在地名]小松市菩提町

動橋いぶりばし川の支流那谷なた川上流の山間部にあり、北西は那谷村、北は能美のみ馬場ばんば村。初め篠原奥しのはらおく村と称したが、花山法皇をこの地に葬り菩提所となったのが村名となったと伝え、また菩提寺があったともいう(小松市史)。正保郷帳では高四五三石余、田方二四町九反余・畑方二町四反余。当初は家数一〇〇戸に近かったが、山村の生活と重税のため逃散する者が相次ぎ、七戸が残るのみとなり、一村退転の危機に追込まれたが、藩主の勧奨月津つきづ村の由右衛門らが復興に努め、その子孫が一三戸に増えたという(小松市史)。天保二年(一八三一)の村御印(小松市史)では高四五四石、免三ツ五分、小物成に山役一一四匁余・松木役五匁がある。


菩提村
ぼだいむら

[現在地名]瓜連町しず

瓜連丘陵の東北にあり、東南は静村。「水府志料」に「此村古へは小場村に属して、菩提と号したるは小名なりと云伝。別村となりし年月不詳」とある。寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「菩提村」とみえ、天保年間(一八三〇―四四)静村に合併された。「水府志料」によると戸数およそ一三、「東野辺より水戸城下への道筋なり」とある。


菩提村
ぼだいむら

金田かなた村の南東に位置する。村域は大饗おわい(現美原町)との錯雑地。村の西部は現堺市で、その中に当村および大饗村との立会枝郷引野ひきのがあり、現引野町辺りに比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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