薩南学派(読み)さつなんがくは

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

薩南学派
さつなんがくは

室町時代の朱子学派の一つ。文明 10 (1478) 年,島津忠昌に招かれた五山の禅僧桂庵玄樹薩摩国朱子学を講じたのに始る。月渚玄得や文之玄昌らの学僧を生み,一派をなしたが,江戸時代に入って衰退した。

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百科事典マイペディアの解説

薩南学派【さつなんがくは】

応仁・文明の乱で地方に下った京都の禅僧桂庵玄樹が,1478年島津忠昌に招かれ薩摩(さつま)国に移り,一族家臣四書五経などを講じた。この玄樹を始祖とする儒学学統を薩南学派という。その後も島津氏歴代の知遇を得て栄えたが,江戸時代中期には特色を失って衰退。

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大辞林 第三版の解説

さつなんがくは【薩南学派】

朱子学の一派。応仁の乱勃発後、禅僧桂庵玄樹が薩摩に招かれて伝えたのに始まる。月渚・一翁らが出たが、江戸時代には衰えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

薩南学派
さつなんがくは

戦国末期から近世初期にかけて薩摩(さつま)地方(鹿児島県)に興隆した宋学(そうがく)(朱子学)の一派。この派の祖桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)は周防(すおう)(山口県)に生まれ、京都五山に学び、1467年(応仁1)から73年(文明5)まで6年間、中国の明(みん)に渡って簡牘(かんとく)外交(手紙すなわち外交文書の往復を通じての外交)のことに従事するとともに禅と朱子学を学んだ。帰国後、石見(いわみ)(島根県)、肥後(熊本県)菊池氏のもとを経て1478年島津忠昌(ただまさ)の招きで薩摩に移り、禅儒として活躍した。儒においては新注学を講じ、わが国で初めて『大学章句』を刊行した。他方、禅の見性(けんしょう)と程朱(ていしゅ)の心法とを調和して薩摩武士の士風の形成に寄与した。『島陰(しまかげ)集』の著がある。桂庵の死後その流れを引く文之玄昌(ぶんしげんしょう)(1556―1620)が出て禅儒として活躍し、訓点(くんてん)のうえで桂庵の後を受けて文之点を完成した。2人はまた薩摩藩の対明外交を助けている。[源 了圓]
『足利衍述著『鎌倉室町時代之儒学』(1932・日本古典全集刊行会) ▽和島芳男著『日本宋学史の研究』(1962・吉川弘文館)』

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精選版 日本国語大辞典の解説

さつなん‐がくは【薩南学派】

〘名〙 日本の朱子学の一学派。文明年間(一四六九‐八七)に薩摩の鹿児島に招請された禅僧桂庵玄樹にはじまる。後に、月渚(げっしょ)・一翁などが出たが、江戸時代に衰亡。藤原惺窩(せいか)により京に招来され、京学として再生した。応仁文明の乱による、中央文化の地方伝播の一成果とされる。

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

薩南学派
さつなんがくは

室町中期,桂庵玄樹が薩摩地方でおこした朱子学派の一派
1478年,薩摩国大名島津忠昌が桂庵玄樹を招き,この地で桂庵が出版したわが国最初の新註『大学章句』を,一族に講義させたのがこの門流の初め。当時旧註によっていたわが国では注目すべきことで,この学派から文之玄昌 (ぶんしげんしよう) が出て近世朱子学に影響を与えた。

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