藤原宮子(読み)ふじわらのみやこ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原宮子
ふじわらのみやこ
(?―754)

文武(もんむ)天皇夫人(ぶにん)。不比等(ふひと)の女(むすめ)。697年(文武天皇1)紀(き)、石川両氏の娘を越えて文武天皇の夫人となり、701年(大宝1)後の聖武(しょうむ)天皇を産んで後宮で重きをなし、藤原氏が外戚(がいせき)として勢力を伸ばす基をつくり、のち皇太后、太皇太后となった。また宮子の病気を治した僧玄昉(げんぼう)は737年(天平9)に藤原4子(武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂)が相次いで死去したのち、その寵(ちょう)を得て一時権力を振るった。陵墓は奈良佐保山(さほやま)西陵。

[福井俊彦]

『上田正昭著『藤原不比等』(1976・朝日新聞社)』『林陸朗著『光明皇后』(1961・吉川弘文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原宮子 ふじわらの-きゅうし

?-754 飛鳥(あすか)-奈良時代,文武(もんむ)天皇の夫人(ぶにん)。
藤原不比等(ふひと)の娘。母は賀茂比売(ひめ)。聖武天皇を生んで心身不調となったが,天平(てんぴょう)9年(737)僧玄昉(げんぼう)の看病によって快復,37年目にはじめてわが子と対面したという。聖武天皇即位により皇太夫人,孝謙朝では太皇太后と称された。天平勝宝6年7月19日死去。名は「みやこ」ともよむ。

藤原宮子 ふじわらの-みやこ

ふじわらの-きゅうし

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原宮子
ふじわらのみやこ

[生]?
[没]天平勝宝6(754).7.19.
文武天皇夫人聖武天皇の母。不比等の娘。文武1 (697) 年文武天皇夫人となり,聖武天皇即位後,皇太夫人,大御祖 (おおおや) ,孝謙天皇の即位後は太皇太后と尊称された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのみやこ【藤原宮子】

?‐754(天平勝宝6)
聖武天皇の母。藤原不比等の女で光明皇后の姉。697年(文武1)8月,文武天皇の夫人となり,701年(大宝1)12月に首(おびと)皇子(聖武天皇)を生んだ。724年(神亀1)2月,聖武天皇の即位によって大夫人の号が与えられたが,長屋王の規定とのかかわりを問うたので同年3月にこれを改め,文字で記す場合には皇太夫人,言葉であらわす場合には大御祖(おおみおや)と称することとなった。また皇太后でもあったが,749年(天平勝宝1)7月の孝謙天皇の即位により,太皇太后となった。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

世界大百科事典内の藤原宮子の言及

【長屋王】より

…翌々年に右大臣藤原不比等が没するや,721年正月の人事異動で右大臣に昇り,さらに724年(神亀1)2月,聖武天皇の即位と同日,左大臣となった。同年3月,聖武生母の藤原宮子の称号について言上し,大夫人,皇太夫人のいずれをとるべきか問うている。このこともあって光明立后を画策する藤原氏から,その反対の中心人物と目され,陰謀がしくまれた。…

※「藤原宮子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

今日のキーワード

国民投票法

正式名称は「日本国憲法の改正手続に関する法律」。平成19年法律第51号。2007年(平成19)5月18日に制定され、施行は3年後の2010年5月18日である。この法律は、日本国憲法第96条に定める日本...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android