椋橋荘(読み)くらはしのしょう

百科事典マイペディア 「椋橋荘」の意味・わかりやすい解説

椋橋荘【くらはしのしょう】

摂津国の猪名(いな)川と三国(みくに)川(現神崎川)が合流する地点一帯に広がっていた摂関家領の荘園。12世紀半ばにはすでに東西に分かれていたが,東荘が成立当初の椋橋荘の地域と考えられ,豊島(てしま)郡に属し,西荘は川辺(かわべ)郡に属した。東荘は現大阪府豊中市域,西荘は現兵庫県尼崎市域に比定される。成立時期は不詳だが,11世紀半ばには摂関家領となっており,12世紀に入ると猪名川を越えて川辺郡へ出作,やがてここに西荘が成立。両荘とも藤原忠実(ただざね),藤原忠通(ただみち)を経て近衛家領となるが,東荘はその後,同家から独立した鷹司(たかつかさ)家に譲られ,同家領として伝領された。近衛家・鷹司家領の椋橋荘とは別に院領の椋橋荘(倉橋荘とも)があり,承久の乱一因となった荘園として知られる。《承久記》によれば,摂津国の倉橋長江の両荘領家職は,後鳥羽院寵愛をうけていた白拍子(しらびょうし)亀菊に与えられていたが,両荘の地頭が領家をないがしろにしたので,亀菊は後鳥羽院に訴えた。院は両荘の地頭を改易するよう鎌倉幕府に伝えたが,幕府がこの申込みを拒否したため,後鳥羽院は幕府打倒を決意したという。院領の椋橋荘は乱後,鎌倉幕府・北条氏管轄となり,南北朝初期には足利尊氏の手に移ったが,尊氏はこれを東大寺に寄進している。このほか頭陀(ずだ)寺領(のち京都東福寺領),奈良春日社(春日大社)領の椋橋荘もあった。1048年藤原頼通(よりみち)の高野(こうや)参詣の際,水手(かこ)役を勤仕したように椋橋荘民は舟運にも携っていたが,鎌倉時代には檜物を売る手工業者商人活動をする者もいた。彼らは檜や杉の薄板で書類を入れる御書櫃を作り,蔵人(くろうど)所に貢納し,その代償として各地で商業活動をする特権を与えられており,当荘にはこうした商人による交易市が開かれていた。
→関連項目亀菊

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