光仁天皇の皇子。母は高野新笠で,桓武天皇の同母弟。781年(天応1)に兄山部親王が桓武天皇として即位するにともない,皇太子となる。これは光仁天皇の意図によるものともいわれ,また時の権勢家藤原種継と対立していたとも伝えられている。785年(延暦4)9月に種継暗殺事件がおこると,犯人として捕らえられた大伴継人,佐伯高成らが,大伴家持のことばとして,種継を除く計画を早良親王にはかって計画し,実行したと自白したため,内裏から東宮にもどったところを捕らえられ,乙訓寺に幽閉された。しかし親王は無実を主張したらしく,飲食をみずから絶って10日余を経て,淡路へ移送される途中,高瀬橋のほとりで憤死した。遺骸はそのまま淡路へ送られ,その地に埋葬された。しかし,その後夫人藤原旅子,皇太后高野新笠,皇后藤原乙牟漏らが相ついで死亡し,792年には早良親王に代わって皇太子となった安殿親王の病状も悪化し,早良親王の怨霊がとりざたされた。これに対して桓武天皇は,790年早良親王の墳墓に守冢一烟をおかせ,792年その墓地に湟(ほり)をめぐらせ穢れることのないようにし,経典の転読や幣帛を供えることとした。800年には崇道(すどう)天皇の尊号を贈り,805年には淡路国に寺を建立し,墓を改葬して大和国添上郡八島陵に移し,国忌・幣帛の例に加えた。桓武天皇は最後までその怨霊をおそれた。のち御霊会でもまつられたが,この思想は中世以降にもうけつがれた。上御霊神社(京都市上京区)は八所御霊をまつっているが,早良親王も含まれている。
執筆者:佐藤 宗諄
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奈良時代末から平安時代初期の皇太子。父は光仁(こうにん)天皇、母は贈皇太后高野新笠(たかののにいがさ)、同腹の兄弟に桓武(かんむ)天皇、能登(のと)内親王がある。母は百済(くだら)系の卑母であったので、若いとき奈良の寺に入れられた。藤原百川(ももかわ)らの努力により光仁天皇が即位すると、親王となり、兄が桓武天皇となると、父の希望により皇太子にたてられた。天皇は大事は自分で決したが、平常の事務は皇太子と百川の甥の藤原種継(たねつぐ)にゆだねた。長岡造宮のことが進むと、皇太子と種継の仲がしだいに悪くなっていった。皇太子の役所の長官大伴家持(おおとものやかもち)が死ぬと、大伴氏の若人や皇太子の役所に仕える人々が、785年(延暦4)9月種継を暗殺した。天皇は大いに怒り皇太子を廃し、乙訓(おとくに)寺に幽閉し、ついで淡路(あわじ)へ流した。廃太子は自ら飲食を絶って高瀬橋(大阪府門真(かどま)市付近)で絶命した。のちその怨霊(おんりょう)を恐れた天皇は廃太子に崇道(すどう)天皇の号を贈り、奈良南方の八嶋(やしま)陵(奈良市八島町)に改葬した。上御霊(かみごりょう)神社(京都市)に祀(まつ)る。
[中山修一]
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(増渕徹)
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750~785.10.-
光仁天皇の皇子。母は和乙継(やまとのおとつぐ)の女高野新笠(たかののにいがさ)。桓武天皇の同母弟。768年(神護景雲2)11歳で出家し,東大寺に住み,父の即位後は親王禅師(ぜんじ)とよばれたらしい。781年(天応元)兄が即位すると皇太子に立てられたが,785年(延暦4)藤原種継(たねつぐ)暗殺事件にかかわったとして廃太子された。淡路に流される途中で死去し,淡路に葬られた。桓武天皇はその怨霊を恐れ,800年,崇道(すどう)天皇の尊号を贈った。
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… 在位の間における最大の事業は平城京からの遷都と蝦夷の征討である。前者はまず784年(延暦3)6月長岡京造営工事をはじめ,11月遷都を行ったが,翌年この事業を推進していた藤原種継が暗殺され,しかも皇太弟早良(さわら)親王が連座して廃され,淡路国へ流される途中死ぬという事件によって,計画の進行がいちじるしく妨げられた。そこで天皇は793年山背国葛野郡宇太村の地を選んで造営工事をはじめ,翌年11月これを〈平安京〉と名付け遷都した。…
…御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい,それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ,僧玄昉(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが,平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王),伊予親王,橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ,863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが,これはやがて《源氏物語》などのような文学作品,《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。…
…その原因として,怨霊によるものとする説と洪水によるものとする説の二つがある。怨霊によるものとする説は,785年,長岡京の造営を中心的に進めた造営長官藤原種継が暗殺され,その容疑者として皇太子早良(さわら)親王が捕らえられ,無実を主張して憤死した事件以後,桓武天皇の周辺に不吉なことが相次いで起こり,その原因が早良親王の怨霊によるものと信じられたためであるとするものである。洪水によるものとする説は,長岡京が都としての立地が悪く,たび重なる洪水,とくに792年の長岡京左京部分が冠水した大洪水により,桓武天皇に長岡京を捨てる決心をさせたというものである。…
…決定後半年で遷都した新京はまだ宮の中枢部分も未完成で,連日昼夜兼行で造作がすすめられ,桓武天皇が平城旧京に行幸中も留守官としてその指揮にあたっていたが,785年9月23日夜に射殺された。この事件は大伴・佐伯両氏が種継を除かんとして,大伴継人,竹良,佐伯高成らが共謀した事件と断定され,直前に死去した大伴家持も連座して官位等を奪われ,皇太子早良(さわら)親王も廃され,皇子は淡路へ移送の途次死亡した。この種継暗殺事件を契機に藤原氏の太政官に占める地位が低下し,桓武天皇の権力が強化されたが,天皇は早良親王の怨霊に終生悩まされることとなる。…
※「早良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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