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藤原鎌足 ふじわらの かまたり

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美術人名辞典の解説

藤原鎌足

飛鳥時代の政治家。初め中臣と称する。中大兄皇子と蘇我氏を倒して大化の改新を実現、内臣として改新政治を指導。近江令の制定にも功があり、天智天皇から大織冠の位と藤原の姓を賜わり、藤原氏隆盛の基を築いた。天智8年(669)歿、56才。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐かまたり〔ふぢはら‐〕【藤原鎌足】

[614~669]古代の中央豪族。本姓は中臣(なかとみ)氏。藤原氏の祖。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智天皇)らと大化の改新を断行、改新政府の重鎮となり、律令体制の基礎を築いた。臨終に際し、天智天皇から大織冠(たいしょっかん)の冠位と藤原朝臣の姓を賜った。中臣鎌子(かまこ)。

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百科事典マイペディアの解説

藤原鎌足【ふじわらのかまたり】

藤原氏の祖。中臣鎌子(なかとみのかまこ)とも。中臣御食子(みけのこ)の子。中大兄(なかのおおえ)皇子らと蘇我氏を倒し,大化改新後は,内臣(ないしん)として政府の中核となった。
→関連項目乙巳の変近江令興福寺太山寺大織冠談山神社中臣氏山科

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原鎌足 ふじわらの-かまたり

614-669 飛鳥(あすか)時代,藤原氏の祖。
推古天皇22年生まれ。中臣弥気(なかとみの-みけ)の子。中大兄(なかのおおえの)皇子(のちの天智(てんじ)天皇)とともに蘇我(そが)氏打倒をはかり,皇極天皇4年(645)蘇我入鹿(いるか)を殺害。大化の新政府で内臣(うちつおみ)となり,中大兄を補佐して律令制への改革をすすめた。臨終に際し大織冠(たいしょっかん)と大臣の位,藤原朝臣の氏姓をあたえられる。天智天皇8年10月16日死去。56歳。初名は鎌子。

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのかまたり【藤原鎌足】

614‐669(推古22‐天智8)
大化改新の功臣で藤原氏の始祖。もと中臣連(なかとみのむらじ)鎌足。父は弥気(みけ)(御食子(みけこ),御食足(みけたり)とも)といい,推古・舒明朝に仕えた神官で,地位は大臣(おおおみ),大連(おおむらじ)に次ぐ大夫(まえつぎみ)。母もやはり大夫の大伴連囓(おおとものむらじくい)(咋子(くいこ)とも)の娘で智仙娘(ちせんじよう∥ちいさこ)といい,大連の大伴金村(かなむら)の孫。生まれたのは推古天皇の朝廷のあった小墾田(おはりだ)宮に近い藤原。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのかまたり【藤原鎌足】

614~669) 七世紀中頃の中央豪族。中臣氏。鎌子とも。不比等の父。中大兄皇子(のち天智天皇)らとともに蘇我氏を倒し、大化改新政府の内臣うちつおみとなって律令体制の基礎をつくった。藤原氏の祖。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原鎌足
ふじわらのかまたり

[生]推古22(614)
[没]天智8(669).10.16.
大化改新の推進者。一名,鎌子。本姓は中臣。御食子 (みけこ) の長子。皇極3 (644) 年神祇伯に任じられたが,病と称して出仕せず,翌年中大兄皇子,軽皇子 (かるのみこ) らとはかって蘇我蝦夷,入鹿父子を誅し,大化改新を断行。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原鎌足
ふじわらのかまたり
(614―669)

7世紀の政治家。藤原氏の祖。中大兄(なかのおおえ)皇子(天智(てんじ)天皇)の側近として、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)を打倒。内臣(うちつおみ)となって大化改新を主導し、以後その死まで政界の重鎮として律令(りつりょう)国家体制の基礎を築いた。本姓は中臣連(なかとみのむらじ)。推古(すいこ)・舒明(じょめい)朝の前事(ぜんじ)奏官(大夫(まえつきみ))兼祭官であった小徳冠(しょうとくかん)中臣連御食子(みけこ)の長子で、母は大徳冠大伴囓(おおとものくい)の女(むすめ)の大伴夫人。名を鎌子にもつくり、字(あざな)を仲郎という。定恵(じょうえ)、不比等(ふひと)、氷上娘(ひかみのいらつめ)(天武(てんむ)天皇夫人)、五百重娘(いおえのいらつめ)(天武天皇夫人)らの父にあたる。鎌足の伝記の『大織冠(たいしょくかん)伝』(『藤氏(とうし)家伝』上、藤原仲麻呂撰(なかまろせん))によれば、614年(推古天皇22)に大倭(やまと)国(奈良県)高市(たけち)郡藤原の第(だい)(邸宅)に生まれたとあるが、後世の『大鏡』のように出生地を常陸(ひたち)国(茨城県)鹿島(かしま)の地とする説もある。『大織冠伝』に、舒明朝の初め、良家の子を簡(えら)び錦冠(きんかん)を授け宗業を嗣(つ)がしめたが、鎌足だけは固辞して三島(みしま)(摂津(せっつ)国)の別業(なりどころ)(別邸)へ退いたとあり、『日本書紀』はこれを644年(皇極天皇3)のこととする。兵法書の『六韜(りくとう)』を暗記し、僧旻(みん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の門に周易や儒教を学んだ。蘇我氏専制体制打倒の意志を固め、まず軽(かる)皇子(孝徳(こうとく)天皇)に接近、ついで中大兄皇子の知遇を得た。ただその間の経緯について『書紀』や『大織冠伝』の伝える話には誇張や潤色がみられ、かならずしも信用できない。
 644年、蘇我一族内部の対立に乗じて蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を味方に引き入れ、翌年謀略をめぐらし飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)内において入鹿を暗殺、大臣(おおおみ)蝦夷を自邸に誅(ちゅう)した。このクーデター成功の功労者を上記2書はいずれも鎌足とするが、政界での地位を考慮すると鎌足よりもむしろ石川麻呂の役割を重視すべきであろう。大化の新政府では内臣に任じたが、「内臣」は寵幸(ちょうこう)の臣、帷幄(いあく)の臣を意味する語で、正式の官職ではない。鎌足は改新推進派の皇太子中大兄皇子のブレーンとして守旧派の左・右大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、蘇我石川麻呂と対立する立場にあり、この間の動向は不明であるが、645年(大化1)の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子、649年の蘇我石川麻呂の謀殺にも荷担していたと推測される。647年の新冠位制により大錦冠(だいきんかん)を授与されたとみられ、654年(白雉5)には大臣の位である紫冠を授かり、さらに大紫冠(だいしかん)に昇進した。651年に没した右大臣大伴長徳(おおとものながとこ)の後を襲ったものか。『大織冠伝』に、このとき増封され、前後1万5000戸の封戸を賜ったとある。664年(天智天皇3)百済(くだら)鎮将劉仁願(りゅうじんがん)の使者郭務(かくむそう)のもとに沙門智祥(しゃもんちじょう)を派遣し物を賜り、668年には新羅(しらぎ)使金東厳(きんとうごん)に付して新羅の上臣金(きんゆしん)に船一隻を賜るなど、白村江(はくそんこう)敗戦後の対唐・新羅和平策を進めた。
 さらに『大織冠伝』によれば、668年、礼儀を撰述し、律令を刊定したとあり、近江(おうみ)令の編纂(へんさん)に携わったことを伝えており、同年正月の酒宴の席において天皇の怒りに触れた大海人(おおあま)皇子(天武天皇)を弁護し、その信任を得たという。669年(天智天皇8)10月16日、淡海(おうみ)の第に薨(こう)じたが、死に際して大織冠内大臣の位と藤原朝臣(あそん)姓を賜った。鎌足は仏教への信仰厚く、長子定恵を出家させたほか、657年(斉明天皇3)に維摩会(ゆいまえ)を開き、また白鳳(はくほう)(白雉(はくち))期以来、元興(がんごう)寺の『摂大乗(しょうだいじょう)論』講説の資とするため、家財を割いてこれを援助している。大阪府高槻(たかつき)市の阿武山(あぶやま)古墳はその墓とされる。[加藤謙吉]
『田村円澄著『藤原鎌足』(1966・塙書房) ▽横田健一著『白鳳天平の世界』(1973・創元社)』

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世界大百科事典内の藤原鎌足の言及

【飛鳥時代】より

…馬子についで蝦夷(えみし),さらに入鹿が大臣となるが,入鹿は有力な皇位継承候補の山背大兄王(聖徳太子の子)を襲って自殺させ,権力の独占を企てる。こうした蘇我氏独裁の危機が強まるなかで,唐に留学した人たちが帰国して東アジアの新しい動向が伝えられると,豪族の世襲職制と私地私民制を廃し,天皇を中心とした中国の唐のような官僚制的中央集権国家を形成しようとする動きが政界の一部に強まり,その中核となったのが中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)であった。2人は綿密に計画を練り,蘇我石川麻呂らを引き入れて,645年,飛鳥板蓋宮で入鹿を斬殺し,蝦夷も自邸に放火して自殺し,蘇我氏は滅んだ(乙巳の変(いつしのへん))。…

【阿武山古墳】より

…頭部から顔面にかけて金糸が残り,絹布を筒状にまいてガラス玉を銀線で連ねた枕が用いられていた。被葬者を藤原鎌足とする説が強い。【猪熊 兼勝】。…

【乙巳の変】より

…干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。…

【妹背山婦女庭訓】より

…角書に〈十三鐘絹懸柳〉とある。近松門左衛門の《大職冠》など藤原鎌足の蘇我入鹿誅戮に取材した先行作を踏まえ,大和に伝わる十三鐘や衣掛け柳,苧環(おだまき)伝説を加えて脚色したもの。道行は,豊後系の浄瑠璃にも改作されている。…

【入鹿】より

…上演記録の初出は1581年(天正9)(《家忠日記》)。藤原鎌足による蘇我入鹿退治の物語で,舞曲《大織冠(たいしよかん)》とともに奈良春日神社,興福寺の縁起譚(えんぎたん)をなす。本曲では鎌足の出生地を常陸国鹿島とし,名の由来を幼時に狐の与えた鎌にちなむとし,その鎌で入鹿の首を打ち落としたとする。…

【蘇我入鹿】より

…つまり入鹿は終始,王権にたいする簒奪(さんだつ)者の典型として形象されている。藤原鎌足[伝承]【阿部 泰郎】。…

【大化改新】より

…すなわち推古天皇の死後,大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)は反対派を制圧して舒明天皇を立てたものの,舒明死後には問題が再燃し,しばらく舒明皇后の皇極天皇が立てられている間に,蝦夷の子入鹿(いるか)は643年(皇極2),聖徳太子の子で皇位継承の有力な候補だった山背大兄(やましろのおおえ)王を急襲して自殺させ,朝廷内部の緊張はいちだんと高まった。
[経過]
 舒明と皇極の間に生まれた中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)は,同志の中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足)らとはかり,645年6月,宮中で入鹿を暗殺し,自邸に蝦夷を包囲して自殺させると,翌日には皇極の弟の孝徳天皇を立て,じぶんは皇太子として実権を掌握し,阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)を左大臣,蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣,中臣鎌子を内臣(ないしん),唐に留学した旻(みん)(新漢人(いまきのあやひと)旻)や高向玄理(たかむくのくろまろ)を国博士(くにはかせ)として新政権を樹立,年号を制定して大化とした(乙巳(いつし)の変)。この新しい朝廷は翌7月,唐に抵抗している高句麗には友好関係の維持を,任那の旧領を新羅から奪った百済には任那の調をも要求するなど,朝鮮諸国に対する外交方針を明らかにした。…

【大織冠】より

…上演記録の初出は1553年(天文22)(《言継卿記》)。大織冠藤原鎌足は娘の紅白女(こうはくによ)を唐の太宗に嫁がせる。太宗はその返礼に万戸将軍を使者として釈迦の霊物を納めた玉をはじめ多くの宝物を鎌足に贈る。…

【武内宿禰】より

…だが作為にもその目的がなければならない。これについては蘇我氏がその権勢を示すために,蘇我馬子をモデルとして6世紀末前後に作ったとする説,藤原鎌足をモデルとして7世紀末に作られたとする説がある。後者は,系譜や物語にかかわる天皇がほとんど非実在者であること,《風土記》に神功皇后の物語が多く,武内宿禰の記事は絶無なので,両者の結合は記紀成立時であること,文武天皇の宣命に鎌足と武内宿禰とを近侍の重臣として等視する事実のあることなどを根拠とする。…

【多武峰】より

…号(なづ)けて両樹(ふたつき)宮とす〉とあるのが地名の初見で,高所に営まれた両槻宮は,道教の影響があるのではないかとされる。多武峰が一躍著名となるのは,藤原鎌足の墓所が営まれたことによってである。鎌足の子の僧定恵(じようえ)は,678年(天武7)ころ(異説もある)亡父の遺骸を摂津国安威(あい)山から当山に移して十三重塔婆(大織冠廟)を建立したといわれ,ついで塔の南に3間四面の堂を建てて妙楽寺と号し,さらに塔の東に方3丈の聖霊院を建てて鎌足の木像を安置したという(《多武峯縁起》《多武峯略記》)。…

【中臣氏】より

…しかし〈延喜本系〉では欽明朝以後,黒田―常磐(ときわ)―方子(かたのこ)―御食子(みけこ)と代々朝廷に仕え,推古・舒明朝では御食子が〈前事奏官兼祭官〉すなわち朝廷の政務を決定する会議に参加する大夫(まえつぎみ)で神官を兼ねていたといい,鎌子・勝海らと黒田以下との系譜関係には触れないので,中臣の嫡流は勝海で絶え,常陸の鹿島から来た中臣(遠祖は大鹿嶋)が後を継いだとの説もある。 ともかく御食子の子の鎌子(後の藤原鎌足)が生まれたころの中臣氏は,間人(はしひと),志斐(しひ),熊凝(くまごり),習宜(すげ),宮処(みやこ),伊勢,鹿嶋など多くの支流に分かれ,各地に中臣部(なかとみべ)という私民や田荘(たどころ)をもつ,かなり有力な朝廷豪族であった。だが鎌子すなわち鎌足は神官の職を継がず,大化改新(645)以後は内臣(うちのおみ)として中大兄(後の天智天皇)を補佐し,669年(天智8)に病没したときには大織冠,内大臣という冠位,官職と藤原という氏を賜った。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

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