7世紀半ばの一大政治改革。中国の隋唐的律令国家形成の過程で,645年(大化元)中大兄(なかのおおえ)皇子・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって,蘇我氏本宗家の政権を倒壊させた乙巳(いっし)の変に続いて,おもに大化年間に行われた。改革の主体は,孝徳天皇・左大臣阿倍内麻呂・右大臣蘇我倉山田石川麻呂・内臣中臣鎌足らであったが,改革派の代表である中大兄皇子と国博士(くにはかせ)となった僧旻(みん)・高向玄理(たかむこのげんり)の役割が重視されている。内容は,地方人民支配に関するものと中央政府内部のものとに大別される。前者は,旧来の部民制を廃して公民制を創出することで,全国を国・評(こおり)(大宝令の郡)に区画し,さらに「五十戸一里制」によって人民を編成する。その開始は,「日本書紀」大化元年(645)8月条の造籍・班田を目的とする東国国司の派遣記事により確認でき,これが東国のみでなく全国的なものであったことも確認できる。その基本方針の決定は,646年元日の改新の詔,同年3月の皇太子奏および同年8月の品部(しなべ)廃止の詔に示されている。その成果としての全国的評制の成立は「常陸国風土記」などの史料により,「五十戸一里制」も飛鳥京跡出土の「白髪部五十戸」木簡により確認される。次に中央の改革は,改新の詔において,部民制の廃止にともない諸豪族に食封(じきふ)・布帛の支給が示され,さらに中央官制構築のため,647年に13階,649年2月に19階の冠位が制定されている。これは推古朝の冠位十二階が対象としなかった大臣など上層部と,職業部の伴造(とものみやつこ)層(百八十部)を含む全官人を包摂したものである。これをうけて,649年2月に高向玄理と僧旻により「八省百官」がおかれたが,これは将作大匠・刑部尚書などの唐直輸入の官名が示すように,なんらかの中国的官制の成立を意味するものと考えられる。これらの官名がその後の改革に継承されていないことから,このような性急な改革は必ずしも実を結ばなかったとみられるが,ある程度の中央官制の整備は認められよう。652年(白雉3)に完成した難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)宮(前期難波宮)は,規模・構造の両面でのちの藤原宮に匹敵するもので,大化の改新の政治改革のいちおうの終結を示すものといえる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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