藤尾村(読み)ふじおむら

日本歴史地名大系 「藤尾村」の解説

藤尾村
ふじおむら

[現在地名]大津市藤尾奥町ふじおおくまち追分町おいわけちよう稲葉台いなばだい茶戸町ちやどまち横木よこぎ一―二丁目

園城おんじよう寺の南西方にあり、地内の小関こぜき越を南西に下れば京都は近く、東方に進めば大津町に出る。村の南西部に枝郷の横木村があり、東海道筋にあたる。小関越近くの相場そうば(相庭山)は頂上で旗を振り米の相場の上下を知らせる山とされ、安永一〇年(一七八一)大津八幡はちまん町の篠屋儀兵衛が米相場の「気色見」の場所を拝借したいと出願したのは同山と考えられる。「本朝世紀」天慶元年(九三八)八月一二日条に「藤尾寺」とあり、その南に尼が一宇を構え石清水八幡大菩薩像を安置したところ多くの帰依を集めたという。小関越の傍らにある寂光じやつこう(現日蓮宗)はもと山田やまだ堂とも藤尾観音堂とも称され、本堂の奥に大きな花崗岩を取込んだ磨崖仏があり、刻銘から延応二年(一二四〇)の造立とされる。

藤尾村
ふじおむら

[現在地名]新市町藤尾、神石じんせき三和さんわ町藤尾

芦田あしだ郡の東北隅に位置し、標高四〇〇―五〇〇メートルの山々に囲まれた山村。「備後郡村誌」に「山九合田畑一合村ニ御座候、但旱損所」「御林拾六ケ所三千九百町歩」「野山四拾九ケ所中馬飼場三百弐拾九町九反五畝七歩」「草山弐拾八ケ所弐拾九町壱反三畝八歩」とあり、「備陽六郡志」にも「六郡第一の広き村なり、東西三里余、南北弐里余有、然共田畠すくなく、山計の村にて(下略)」とある。「福山志料」は地名の由来および文永(一二六四―七五)頃の様子を次のように記す。

藤尾村
ふじのおむら

[現在地名]瀬高町山門

上小川かみおがわ村の東にあり、北は堀池薗ほりけぞの村。天正七年(一五七九)龍造寺隆信田尻鑑種に対し一千町の所領給付を確約し(同年一二月九日「龍造寺隆信起請文」田尻家文書/佐賀県史料集成七)、そのうち六〇三町を先給した天正七、八年頃のものとみられる年月日未詳の田尻鑑種知行坪付(同上)には「六町 藤ノ尾村」とみえる。文禄四年(一五九五)の知行方目録に藤尾村とあり、高三四一石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)では反別三〇町七反余、分米三二四石余、村柄は上とある。元和七年(一六二一)の郡村帳では玄蕃高四一一石余・新田高五石余、小物成は山手米一石余。万治三年(一六六〇)の忠茂公御代之分限帳(渡辺家史料)によれば、鳥取助之丞ら二名の知行地があった。

藤尾村
ふじおむら

[現在地名]三和町藤尾、芦品郡新市しんいち町藤尾

藤尾村(芦品郡)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報