平安末期の僧。源基平の子で後三条天皇の孫にあたる。園城寺(おんじようじ)(三井寺)の明尊の弟子となり,17歳のときから大峰,真木尾,熊野など霊山をめぐって苦行し験力を讃えられ,鳥羽天皇皇后待賢門院璋子の病を加持して名声を得た。1116年(永久4)園城寺長吏,18年(元永1)四天王寺別当,23年(保安4)天台座主(ざす)に任じられたが延暦寺僧徒の反対で辞退。25年(天治2)大僧正となり,宇治平等院を本寺としたので平等院僧正と呼ばれた。延暦寺僧徒に焼かれた園城寺金堂を再建し,また覚鑁(かくばん)の高野山大伝法院建立を助けた。行尊は和歌をよくし,大峰苦行の際の歌〈もろともにあはれと思へ山桜花より他に知る人もなし〉は,《金葉和歌集》に収められ人口に膾炙(かいしや)する。後世,修験道の本山派では,行尊を修験の先達として讃え,また西国三十三所巡礼の創始者とする説もある。
執筆者:速水 侑
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平安末期の天台宗の僧。通称を平等院(びょうどういん)大僧正という。参議源基平(みなもとのもとひら)(1026―1064)の子。12歳のとき園城寺(おんじょうじ)で出家し、17歳から諸国を遊歴、大峰(おおみね)山、葛城(かつらぎ)山などの修験(しゅげん)霊場で修行した。祈祷(きとう)に優れ天皇の病を祈り験(しるし)があったという。のち三井平等院に入り、1116年(永久4)園城寺長吏となって百座仁王講(にんのうこう)を始め、毎年修するのを例とした。1123年(保安4)44世天台座主(ざす)に任ぜられたが、6日で辞した。和歌に秀で、『金葉』『詞花』『千載(せんざい)』『新古今』などの勅撰(ちょくせん)集に多くの歌が収められている。また画もよくし、衣冠を着けて歌を詠んでいる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)像を夢にみて写したという画があり、人麻呂像の最初のものとされる。
[塩入良道 2017年6月20日]
(山本登朗)
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…伝承によると,大和長谷寺の徳道上人,あるいは花山法皇が,仏道を求めて観音の霊場を一巡したことに始まるといわれる。三井園城寺の僧で,修験者として有名な行尊(1055‐1135)が始めたとも伝えられるが,札所の寺を詳細に検討すると,創立年代が事実とあわない点から,これらの説を用いることはできない。むしろ,1161年(応保1)正月に三十三所を巡礼した後で記した,覚忠の《巡礼記》の記事は信頼するに足るもので,彼によって創始されたものと考えてよかろう。…
※「行尊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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