1890年2月10日に公布され11月1日から施行された法律で,1947年5月3日裁判所法の施行により廃止されるまで,日本の裁判所の構成を定めていた法律。この法律が制定されるまでには,いくつかの重要な裁判所の構成に関する制度の変遷があった。明治維新後の1872年(明治5),政府は,最初の裁判所構成の定めとして司法職務定制(司法省職制並事務章程)を制定した。これは〈仮定ノ心得ヲ以テ施行可致事〉としたものではあったが全文28章108条よりなる精緻なものであった。この定めにおいては,司法者の権限を〈全国法憲ヲ司リ各裁判所ヲ統轄ス〉(2条)るものと規定し全国の裁判権を司法省に統一した。しかし,維新直後のことでもあり,その施行の過程は,必ずしも円滑といえず,とくに裁判所の設置については内外からの抵抗を受けた。しかし,司法卿であった江藤新平の職を賭した強硬策により裁判所設置に対する抵抗はしだいに鎮静化し,裁判事項は司法省に集中統合される傾向をたどった。これらの一連の改革は,当時としてはきわめて進歩的であり,とりわけ江藤の開明的精神と専制的手腕をもってはじめて実現したものであった。しかし,全体としてみれば裁判制度の近代化はいまだ緒についたばかりであった。さらに,征韓論が敗れたため江藤が辞職し,これに次ぐ司法省首脳の下野は裁判制度の整備を大きく停滞させた。
しかし,その後に生じた政府内部の対立という政治的危機を切り抜けるため,政府は,政策的妥協を進め,また民権論者との妥協のために司法権の独立,立法府の開設などを内容とする計画を承認した。その結果,75年大審院を設置し,従来司法卿が有していた裁判権を大審院に帰属せしめ,この下に上等裁判所,初等裁判所をおき,裁判所機構の一貫化を図った。日本の裁判制度の体系化は,大審院設置に始まるともいえる。それまで中央では司法行政の庁である司法省が最高裁判所の機能をもち,地方では府県裁判所が置かれたものの,これが設置されていない府県では地方行政機関が裁判所の機能を果たしていた。このような機構上の混乱が75年に一応の終止符を打たれたのである。しかし,現実には司法制度は行政権の恣意によって左右されることを排除できず,政治目的のために利用されたこともあって,そのあり方はつねに自由民権運動などからの攻撃の的にもなっていた。こうした背景のある一方で,その後の政治情勢の推移,とりわけ政府が実現しようとした不平等条約改正の必要から,その要求に沿ったさまざまな改革作業が進められていた。
こうした中で,とくに大きな転機となったのは,議会開設,憲法発布,条約改正という課題にこたえるための改革で,政府は,1885年以降官制の大改正を行うことになった。これにより太政官制が廃止され,内閣が設けられ,行政組織の中心は近代的体制を整えるに至ったが,裁判所官制(1886公布)も制定され,裁判官の身分保障の法定などが盛り込まれた。裁判所官制は,日本の司法制度が制度・機構の両面において近代的性格を有するに至ったことを示すものであり,その内容はほとんど変更されることなく90年の裁判所構成法に引き継がれることになった。
裁判所構成法の制定は,条約改正の準備と裁判制度を整備する必要から1886年外務省に法律取調局を置いたことにより着手された。ドイツ人オットー・ルドルフOtto Rudorffがドイツ裁判所構成法を範として原案を起草し,90年に公布されたものである。これにより,はじめて日本の裁判所の構成は統一的体系をもつものとして整序されたのであった。その内容は,実質的には,それ以前における裁判所の構成を定めていた種々の立法とほとんど変化のないものであったが,司法制度の構成を全体として体系的・統一的に1個の法として網羅したものであり,そのあり方を法律によって安定的なものとした点で,その成立は,日本の司法制度の近代化の過程において最も重要な意味を有するものであった。この法律は,〈裁判所及検事局〉〈裁判所及検事局ノ官吏〉〈司法事務ノ取扱〉〈司法行政ノ職務及監督権〉の4編144条から構成される。この草案において最初に規定されることが予定されていた裁判権に関する宣言的部分は,帝国憲法中に〈日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルヽコトナシ〉(24条),〈司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ〉(57条)などとして規定されたため,本法における司法権独立に関する規定は具体的な内容のものとなった。この中には憲法58条を受けて〈第74条乃至第75条ノ場合ヲ除ク外判事ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ処分ニ由ルニ非サレハ其ノ意ニ反シテ転官転所停職免職又ハ減俸セラルヽコトナシ〉(裁判所構成法73条)とする規定も含まれている。
一定年限以上判検事,弁護士等の職を務めなければ控訴院判事,大審院判事に補せられないとして行政官が直接上級裁判所の判事となって司法権に介入することを封じ(69,70条),司法権の独立をより具体的に明定した点で従来の司法制度に比して進歩的なものであった。
このように司法権の独立が種々の点で明らかとなっていたにもかかわらず,特別裁判所の設置を留保する規定(2条)などをとおして司法権は大きく制約され,また,司法大臣には広範な監督権限が認められ(135条),司法権の行政権に対する対等の関係は確立されるには至らなかった。
本法の施行とほぼ同時に,民事訴訟法,刑事訴訟法,弁護士法等の諸種の法律が制定施行され,日本における司法制度の統一・近代化は一応完了した。その後,調停制度の成立(最初のものとして1922年公布の借地借家調停法),陪審制度の導入(1923年公布の陪審法)などを通じて,日本の司法制度は社会情勢の変化への対応を進めたが,1941年以降戦時体制に移行し,1890年以降の裁判所の基本的構成は,その特色を失うに至った。
執筆者:染野 義信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 最高裁判所は,1947年5月3日に日本国憲法および裁判所法が施行されるとともに,それまでの大審院に代わるものとして発足した。大審院は,1875年に設置され,86年制定の裁判所官制のもとで一般の裁判に対する上告を審理する裁判所となったが,89年に発布された大日本帝国憲法および翌年施行された裁判所構成法のもと,司法権の独立を基礎とし司法作用の最高権限者としての性格をもつに至った。ただし,大審院は,次の諸点について最高裁判所と異なるところがみられる。…
…憲法は最高裁判所のあらましとその下位に下級裁判所を設置することだけを定めているが,これをうけて裁判所法が各種裁判所の組織,権限などについてくわしい基本法的規定を明示している。日本に権力分立の政体が確立して以来,裁判所について定める法制は1872年(明治5)の司法職務定制,75年の大審院諸裁判所職制章程,86年の裁判所官制,90年の裁判所構成法,そして現行の裁判所法と変遷してきた。裁判所法とその前の裁判所構成法とは,憲法秩序の改革にともなう司法権の質的変化に対応したさまざまな差異を示しているが,とりわけ大きなちがいは,現在では検察庁法が別に制定されて検察組織がもはや裁判所法の規律対象にされていないことである。…
※「裁判所構成法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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