改訂新版 世界大百科事典 「ムハンマドアリー朝」の意味・わかりやすい解説
ムハンマド・アリー朝 (ムハンマドアリーちょう)
Muḥammad `Alī
ムハンマド・アリーを開祖とする近代エジプトの王朝。1805-1953年。メフメト・アリー朝ともいう。その公式な政体は,1914年まではオスマン帝国の属州(統治者の正式名称はワーリーwālī,1867年以後ヘディーウ),1914年から22年まではイギリス保護国(同,スルタン),そして22年以降は王国(同,マリク)。
1840年のロンドン四ヵ国条約締結は,ムハンマド・アリー一族によるエジプト総督の世襲化の道を開いたが,このことは同時に,ムハンマド・アリーによる国内産業独占政策の放棄と,西欧資本主義に対するエジプト国内市場の開放をも意味した。以後,サイード・パシャ,イスマーイール・パシャの統治下にあって,スエズ運河開設に象徴される一連の近代化政策が実施され,その間,エジプト財政の外資依存と綿作モノカルチャー農業構造の進展によって,エジプト経済の対西欧従属過程が進んだ。76年におけるエジプト財政の破産に端を発した一連の政情不安の中で,近代エジプト最初の民族主義運動であるアラービー運動(1879-82)が発生したが,イギリス軍によって鎮圧され,以後エジプトはイギリスの軍事支配下に置かれ,エジプト経済の対西欧,とりわけ対英従属化は強化された。
第1次世界大戦後の1919年,サード・ザグルールを指導者とする反英民族独立運動が発生し,この運動の高まりの中で,22年イギリスはエジプトの独立を一方的に宣言した。しかし,これによって従来のイギリス権益が放棄されたわけではなく,独立は名目的なものであった。その後のエジプト政治は,イギリスからの完全独立の達成という課題をめぐって展開された。その政治過程は,(1)イギリス,(2)トルコ系大地主貴族階層を支持基盤とする国王・宮廷勢力,(3)議会制の枠内での政治闘争を目ざし,中小地主階層と民族産業資本家階層を主たる支持基盤とするワフド党,の利害がからみあって展開された。さらに,1930年代以降は,(4)都市大衆を組織したムスリム同胞団を中心とする大衆運動もこれに加わった。しかし,エジプトの完全独立の達成は,この王朝を倒した52年7月23日のナーセルを指導者とする自由将校団の軍事クーデタ(エジプト革命)を待たねばならなかった。
執筆者:加藤 博
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