観音町(読み)かんのんまち

日本歴史地名大系 「観音町」の解説

観音町
かんのんまち

[現在地名]金沢東山ひがしやま一丁目・観音町三丁目

浅野川大橋詰の広見ひろみより南東へ卯辰うたつ山麓の観音院に至る通りを挟む両側町。通りの南側で西から河端かわばた町・織部おりべ町・観音下かんのんした町と交わる。北側では西から四丁一番しちよういちばん町・同二番にばん町・河端町と、さらに次の二筋は北へ延びて茶屋ちやや町に続き、次の三筋は八幡宮参詣道と交わる。通りの途中北側に西源さいげん寺、観音院の鳥居を過ぎたところに寿経じゆけい寺、観音院参道の階段登り口北側に観音院の薬師堂がある(延宝町絵図)。元和二年(一六一六)観音院が卯辰山から移された時、四代藩主前田光高が観音院から浅野川大橋までの狭隘な道を拡張し、造成し、同時にこの通りを観音町とした(「観音院由来書」加賀藩史料)


観音町
かんのんまち

[現在地名]福井市日之出ひので一―三丁目

福井城東方郭内、天草あまくさ町の南方にあって、割場わりば御門から日之出御門までの間を東西に延びる侍屋敷町。割場御門外南側に曹洞宗鎮徳ちんとく寺があり、寺内に安置する十一面千手観音にちなんで町名が生れた。

当町の北裏側の町を永平寺えいへいじ町とよぶ。これも鎮徳寺の前身が永平寺であったことから生じた町名である。また、割場御門内の見附広場を割場とよぶ。慶長一九年(一六一四)江戸の藩主から大坂冬の陣出動を命ずる急飛脚が到着し、その時踊の行われていた広場がたちまち出陣の陣容割に変わったところから割場の呼称が生れ、割場御門を別名人分ひとわけ御門ともよんだ。


観音町
かんのんまち

[現在地名]福井市西木田にしきだ一―二丁目

北陸街道に沿う木田辻きだつじ町から北へ入る毛屋口けやぐち道を通り、さらに東に入ったところにある町で、町名は橘七屋敷の一つ普門ふもん観音堂に由来する。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳は「地方観音町 四拾六間、花谷道ヨリ野外迄、但道幅一間一尺」と記す。

普門院(廃寺)はもと真言宗尭寿ぎようじゆ院と号し、万治(一六五八―六一)天台宗に改宗したというが(越藩拾遺録)、天正一三年(一五八五)霜月一八日付堀秀政判物(橘家文書)に「観音堂石竹木伐採之儀」とみえ、辻の観音として信仰を集めた。


観音町
かんのんまち

[現在地名]本荘市観音町

本荘城下町の町人町である外町に属し、古雪ふるゆき町の西隣で、北は子吉こよし川に面する。

町の南にある大泉たいせん寺は曹洞宗、宝永元年(一七〇四)開基で、本荘町の永泉ようせん寺の末寺(羽陰温故誌)住吉すみよし神社は由利郡内越うてつ多光森たこうもりから慶長年間(一五九六―一六一五)に楯岡満茂が本荘に移したという。


観音町
かんのんちよう

中京区二条通高倉東入

東西に通る二条にじよう(旧二条大路)を挟む両側町。西を高倉たかくら(旧高倉小路)、町の中央を堺町さかいまち通が南北に通る。

平安京の条坊では二条大路上、平安中期以降は二条高倉小路の東にあたる。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「二条観音丁」、寛永以後万治以前京都全図では「観音丁」とある。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」では「観音町北側南側」とあり、明治二年(一八六九)合併された。


観音町
かんのんちよう

[現在地名]結城市結城 観音町

結城城下南端に位置し、北は大切おおぎり町。人手ひとで観音堂・聯芳れんぽう庵・松源しようげん寺などがあり、戦国期から町場的要素を有した集落であったと想定される。結城秀康の時に新城下が建設されるに及び、その一角に組込まれていったようである。元禄一六年(一七〇三)の「結城使行」に町名がみえ、宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)によると寺門前六を含む二〇軒の家があった。


観音町
かんのんまち

[現在地名]加賀市大聖寺観音町だいしようじかんのんまち

なか町の一筋東にある通りの両側にある町人町で、町家の西裏は中町請地であった(天明六年大聖寺絵図)。町名は町のほぼ中央に観音の小祠があることに由来する。五軒ごけん町との間には明治維新前まで藩の吟味所があったが、のち商家に変わった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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