観音院跡(読み)かんのんいんあと

日本歴史地名大系 「観音院跡」の解説

観音院跡
かんのんいんあと

もと大雲寺の寺域内にあった一院。「京都府愛宕郡村志」は冷泉天皇皇后昌子陵の辺り、すなわち現大雲寺の地と推定する。永観三年二月二二日に皇太后昌子内親王によって創建され「皇太后昌子内親王、天台山脚建立精舎、号観音、此院之裏有六箇堂」と、院の背後に大雲寺の堂宇が存在していたことが知れる(扶桑略記)余慶開基とし(寺門伝記補録)、長徳四年(九九八)二月一五日には昌子より荘園を寄進され(小右記目録)、大雲寺を代表する院となったが翌五年一二月一日に昌子が没し、五日にここに葬られた。「日本紀略」は「葬于観音院、依遺令山陵」と記している。


観音院跡
かんのんいんあと

[現在地名]金沢市東山一丁目

卯辰うたつ山西麓にあった。卯辰山と号し、真言宗本尊の十一面観音は大和国長谷はせ(現奈良県桜井市)の観音の末木をもって作られたとされ、当初は石浦いしうら村にあったが慶長六年(一六〇一)卯辰山へ移されたという。同年前田利長が観音堂と山王社を造営し、元和二年(一六一六)には三代藩主前田利常夫人(二代将軍委忠娘)発願で現在地に当院が造営されたと伝える(貞享二年寺社由緒書上など)


観音院跡
かんのんいんあと

観音院は許麻神社境内にあって宮寺であった。古義真言宗御室御所(仁和寺)真光院末であったが、明治初期の神仏分離廃寺となった。観音院記録書(念仏寺蔵)によると、聖徳太子が十一面観音を本尊とする久宝寺を建立し、推古天皇二年勅願所となった。室町時代松永久秀に焼かれ、本尊のみが僧源山によって伊賀国下津に運ばれ、永禄九年(一五六六)源山没後に返送されてきたが堂舎がなかったのでそれを安置するため当院を建立したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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