大雲寺(読み)ダイウンジ

デジタル大辞泉 「大雲寺」の意味・読み・例文・類語

だいうん‐じ【大雲寺】

中国、則天武后が諸州に建立した寺。日本の国分寺はこれをならったものといわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「大雲寺」の意味・読み・例文・類語

だいうん‐じ【大雲寺】

  1. [ 一 ] 京都市左京区岩倉上蔵(あぐら)町にある天台系単立寺院。山号は紫雲山。実相院に属する。天祿二年(九七一円融天皇の勅願により日野文範が創建。開山は真覚。平安中期には一山を三塔に分けるなど盛大をきわめたが、のち兵火のため次第に衰退した。平安初期作の梵鐘(ぼんしょう)国宝。岩倉観音。
  2. [ 二 ] 愛知県宝飯郡御津町にある浄土宗の寺。門前の茶屋の甘酒が名物。
  3. [ 三 ] 中国、唐の則天武后の勅願により諸州に置かれた寺。偽撰大雲経の神皇受命説により、国号を周と改め、この経を天下に頒ち、寺を建立した。日本の国分寺のモデルといわれる。

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日本歴史地名大系 「大雲寺」の解説

大雲寺
だいうんじ

[現在地名]左京区岩倉上蔵町

実相じつそう院の北、紫雲しうん山の山麓に位置する。紫雲山と号し、天台系の単立寺院。本尊は十一面観音。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔智証門流〕

天禄二年(九七一)日野中納言文範が真覚を開祖として創建した園城おんじよう(三井寺、現滋賀県大津市)別院で、本尊は行基作と伝え、もと内裏に安置されていたものを藤原時平が相伝し、その室明子が勅により当寺に移したという(大雲寺縁起)。天元三年(九八〇)一月二四日に円融天皇によって御願寺とされ(小右記目録)、永観三年(九八五)には皇太后昌子内親王が寺内に観音院を建立(「日本紀略」同年二月二二日条)。園城寺開祖智証大師(円珍)の法脈を引く藤原佐理の子文慶が初代別当職に補せられた(寺門伝記補録・尊卑分脈)。天元四年、寺門派の余慶の山城法性ほつしよう寺座主任命に端を発した山門・寺門衆徒の対立(「扶桑略記」同年一二月条)のなかで「余慶率門人数百人、住観音院、北岩倉」(山門三井確執記・園城寺伝記)とあるように、難を避けた余慶およびその門人が移り住み、智証門流の中心寺院となった(寺門伝記補録)。余慶はのちに永祚元年(九八九)第二〇代天台座主に任ぜられたが山門衆徒の反対にあい、同年一二月二〇日にその職を辞し、正暦二年(九九一)二月一八日にこの地に没した(天台座主記)


大雲寺
だいうんじ

[現在地名]岡山市表町三丁目

西山浄土宗、山号法沢山、本尊阿弥陀如来。江戸時代の大雲寺町北東角にあり、外堀に接していた。寺中に以心庵があった。初め西大寺さいだいじ町にあって竜昌山大運だいうん寺と称していたが、天正年中(一五七三―九二)再興して大雲寺と改称した。宇喜多直家の時代寺領三〇〇石を寄進され、小早川秀秋のとき没収されて今の所へ移されたという(備陽国誌)。文禄四年(一五九五)宇喜多秀家に認可された備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写(金山寺文書)には大運寺とみえ、寺領は二〇〇石。


大雲寺
だいうんじ

[現在地名]青海町外波

集落の南東にあり、飛龍山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。越後流罪の折の親鸞の旧跡と称され、二十四輩巡拝図会(西蓮寺蔵)に「外波村の庄司、大文字屋右近という郷士あり、高祖上人、越後国府へ逆旅の節、この家に宿りましましける」とある。寺伝では次のように説明する。親不知おやしらずの難所で立竦たちすくみという老漁夫が親鸞を背負って渡し、漁夫は忽然と消えた。外波村の大文字屋右近太夫平宗照に宿を断られた親鸞は、軒下の石を枕に休んだ。


大雲寺
だいうんじ

[現在地名]三朝町穴鴨

穴鴨あながも集落の南に位置する。西照山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと京都知恩院直末。元和元年(一六一五)の西照山大雲寺縁起(寺蔵)によれば、空也が衆生済度のため西照庵を結んだことに始まるという。その後草庵は度々無住となったが、慶長年間(一五九六―一六一五)知恩院三一世の霊巌が倉吉に流罪となった房州里見安房守に面談に来た折、草庵に宿泊して由緒を聞き、西照庵霊巌院大雲寺と称して再興したと伝える。


大雲寺
だいうんじ

[現在地名]糸魚川市田伏

田伏たぶせ集落を北に見渡す台地上にあり、金峯山と号し、曹洞宗。開山は元和七年(一六二一)没という湖巌正珊。寺宝血書大般若経六〇〇巻は、文政年間(一八一八―三〇)に一二代高雲得宗が自身の顔面から鮮血を絞って書写したもので、その他諸経一〇巻、釈尊および諸菩薩の経文字画像四〇余軸を残した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大雲寺」の意味・わかりやすい解説

大雲寺(中国)
だいうんじ

中国唐代、則天武后(そくてんぶこう)によって設置された仏教寺院。大雲経寺ともいう。『長安志』第10巻によれば、隋(ずい)の584年(開皇4)に文帝が僧法経(ほうきょう)をしてこの寺を建てさせた。ところが、延興寺の僧曇延(どんえん)が蝋燭(ろうそく)の炎を自然に発火させるという不思議な業を行ったので、文帝はこれを奇とし、この寺の名を光明寺(こうみょうじ)と改めさせた。武大后のときこの寺の沙門宣政(しゃもんせんせい)が『大雲経』を進上したが、経のなかに「女主之符」(まじないの文字)があったので寺名を大雲経寺と再度改めて、690年(載初1)10月天下の州ごとに大雲経寺を置いたという。日本でも奈良時代に国分寺が全国に設置されたが、これを模したとするものもある。

 なお、大雲寺は、実はウイグルマニ教徒の寺院であるとする説もあるが、強い異論もある。

[加藤 武]

『松本清張著『清張通史6 寧楽』(1983・講談社)』『鎌田茂雄著『中国仏教の寺と歴史』(1983・大法輪閣)』


大雲寺(京都市)
だいうんじ

京都市左京区岩倉上蔵(あぐら)町にある単立寺院。もとは天台宗寺門派。山号は紫雲山(しうんざん)。俗称を岩倉観音(かんのん)という。本尊は十一面観音。971年(天禄2)円融(えんゆう)天皇の勅により日野中納言(ちゅうなごん)文範が真覚(しんがく)を開山として建立。その後、寺運甚だ盛んで、993年(正暦4)に叡山(えいざん)で円珍・円仁(えんにん)の両門徒が争った際、余慶(よけい)はじめ円珍の門徒1000人が山を下って当寺に住し、僧房を建てて三塔に分かれた。その後も天台宗寺門派の中心寺院として栄えたが、天文(てんぶん)年間(1532~55)兵火のために炎上した。1633年(寛永10)実相院門跡(もんぜき)義尊(ぎそん)がこれを再興し、以後実相院の兼務所となって今日に至る。金色の本尊十一面観音像は行基(ぎょうき)の作という。ほかに天安(てんあん)二年(858)八月の銘がある梵鐘(ぼんしょう)(国宝)一口が伝わる。

[平井俊榮]

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改訂新版 世界大百科事典 「大雲寺」の意味・わかりやすい解説

大雲寺 (だいうんじ)
Dà yún sì

中国,唐の則天武后が《大雲経》に付会した讖文(しんぶん)によるなどして武周革命を行った直後の690年(天授1)10月,両京と全国諸州にそれぞれ一寺を設けた官寺,大雲経寺の略称。これら大雲寺には《大雲経》を奉安させ,高座の上から経旨を講じさせた。同一名称の官寺を一斉に設立した最初であるが,多くは在来の寺院を改称したのであった。のちに中宗は竜興寺,玄宗は開元寺を建てた。日本の国分寺はこれらの模倣である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大雲寺」の意味・わかりやすい解説

大雲寺
だいうんじ

京都市左京区にある天台宗寺門系の単立寺院で,岩倉寺,観音院,岩倉観音とも称する。本尊は十一面観音。天禄2 (971) 年に日野文範により園城寺の別院として創建され,開山は『日本往生極楽記』に奇瑞譚が載せられている真覚 (しんがく) 。当初は大伽藍が存在したというが,のちに衰退,近世になり後水尾天皇,東福門院の援助で実相院門跡義尊が中興した。近世を通じての寺院記録である『旧記大帳』を伝え,また天安2 (858) 年の銘をもつ銅鐘は,もともと延暦寺西宝幢院の所蔵であったが,後水尾天皇の寄進になるもので,国宝に指定されている。現在この銅鐘は承天閣美術館に収蔵される。

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事典・日本の観光資源 「大雲寺」の解説

大雲寺

(長野県千曲市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

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