諏訪頼重(読み)すわよりしげ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「諏訪頼重」の意味・わかりやすい解説

諏訪頼重
すわよりしげ
(1516―1542)

信濃(しなの)国(長野県)諏訪を根拠とした戦国武将。刑部大輔(ぎょうぶだいぶ)、安芸守(あきのかみ)を称す。1520年(永正17)諏訪大社上社(かみしゃ)の大祝(おおほうり)となる。父頼隆(よりたか)が早逝したため、39年(天文8)祖父頼満(よりみつ)の死去に伴い、諏訪惣領(そうりょう)家を継いだ。同年、甲斐(かい)国(山梨県)武田信虎(のぶとら)の娘を娶(めと)り、祖父以来の同盟関係をさらに強固なものとして、諏訪周辺への所領拡大を図った。また、これより以前、頼重と小笠原(おがさわら)氏の家臣小見(おみ)氏の娘との間に生まれた女子が信玄(しんげん)に嫁いでおり、勝頼(かつより)を生んでいる。しかし、41年信虎がその子信玄に追放されたのを契機として、武田氏との関係は一変し、翌42年に至り、信玄の攻撃を受けて降伏、頼重は甲斐へ拉致(らち)され、迫られて同年7月20日自殺した。

[郷道哲章]

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改訂新版 世界大百科事典 「諏訪頼重」の意味・わかりやすい解説

諏訪頼重 (すわよりしげ)
生没年:1516-42(永正13-天文11)

戦国時代の武将。諏訪大祝(おおほうり)の後裔頼隆の子。信濃国諏訪郡上原城主。甲斐の武田信虎としばしば戦ったが,のち和睦してその娘をめとる。諏訪下社の金刺(かなさし)氏を制し,佐久・小県両郡に出兵し勢力を持ったが,武田家をついだ晴信(信玄)に諏訪頼継らが通じたため,1542年に晴信に下り身柄甲府に移されて自殺。その娘は信玄の側室となり勝頼を生んだ。
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朝日日本歴史人物事典 「諏訪頼重」の解説

諏訪頼重

没年:建武2.8.19(1335.9.6)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。宗経の子。三河守,照雲入道と称す。正慶2/元弘3(1333)年に後醍醐天皇の親政が始まると,前諏訪上社大祝頼重は北条高時の遺児亀寿丸(時行)を擁立した。諏訪一族をはじめ佐久や小県の諏訪氏の傍流,禰津・滋野氏らもこれに応じ,建武2(1335)年7月頼重軍は信濃一国をほぼ手中に収め,鎌倉をも占拠し,時行は北条氏の後継者として名乗りを挙げた。しかし足利尊氏・直義軍との戦いに敗れ,8月19日時行は逃亡し,頼重以下一族43人は鎌倉大御堂(勝長寿院)で足利軍と戦い,最後はここで自刃した。いわゆる中先代の乱の中心人物である。

(笹本正治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の諏訪頼重の言及

【諏訪氏】より

…中・近世の信濃の豪族。諏訪上社大祝(おおほうり)家。神氏を称した。出自・系譜には諸説がある。神為仲が源義家の東征に従い,保元の乱には平吾らが源義朝の軍に加わっていた。盛重は源頼朝に仕え諏訪太郎と称し,以後鎌倉幕府御家人となり,また北条氏の御内人でもあった。1335年(建武2)の中先代の乱では頼重が一族をあげて挙兵し,北条時行を奉じて一時は鎌倉を占領したが,結局足利尊氏に敗れた。のち宗良親王を奉じて南朝にくみした。…

【中先代の乱】より

…当時執権北条氏を先代と呼んだので,その再興を図った時行を中先代と称した。この年6月,北条氏と親密であった公卿西園寺公宗の建武政権転覆の陰謀が発覚したが,公宗と呼応するはずであった時行は,旧北条氏御内人(みうちびと)諏訪頼重らに擁せられて信濃に挙兵し,武蔵に進んで女影原,小手指原,府中に足利軍を破った。当時成良親王を奉じ鎌倉にあって関東を治めていた足利直義は,武蔵井出の沢に時行軍を防いだが敗れ,幽閉中の護良親王を斬らせ,成良親王を擁して東海道を西走し,時行軍は鎌倉を占拠した。…

※「諏訪頼重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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