改訂新版 世界大百科事典 「諸宮調」の意味・わかりやすい解説
諸宮調 (しょきゅうちょう)
zhū gōng diào
中国の宋・金・元代(10~14世紀)に流行した語り物の形式。韻文による歌と散文の叙述とを交互にくりかえして,長編の物語を語った。歌辞の部分は,同一の宮調(調子のこと)に属する二つ以上の曲から成る組曲(これを〈套数〉という)を数十つらね,全体として複数の宮調による大型の組曲形式となっており,諸宮調という名称もそこから起こった。演者は通常1人で,伴奏は琵琶などの弦楽器を用い,そのためまた〈搊弾詞(しゆうたんし)〉ともよばれる。北宋の時(11世紀後半)に,沢州(山西省の晋城)の芸人,孔三伝が創始したといわれ,その後,金・元にかけて南北に広く行われた。特にその組曲形式と四声を通押するそれまでにない押韻法は,元代の雑劇や散曲,すなわち元曲と共通しており,元曲を生みだす有力な母胎となったと考えられる。ただし明代以降は急速にすたれ,現存する作品も少なく,完全に残っているのは,金の章宗の時の人といわれる董解元の作《西廂記諸宮調》,別名《董解元西廂記》(略して《董西廂》)だけである。この作品は唐の元稹の伝奇小説《鶯鶯伝(おうおうでん)》を題材としており,元の王実甫の雑劇《西廂記》に大きな影響をあたえた。その他,不完全なものとしては,1907年に西夏の遺跡であるカラ・ホト(黒水)城址から発見された《劉知遠諸宮調》の残巻,および明代の歌曲集《雍煕楽府(ようきがふ)》などに歌辞が散見する元の王伯成の《天宝遺事諸宮調》がある。《劉知遠諸宮調》は,宋の《五代史平話》にもみえる五代後漢の高祖,劉知遠とその妻の李三娘をめぐる一種の出世物語であり,のちに明代の戯曲《白兎記(はくとき)》となった。金代の作品と推定されるが,形式的には《董西廂》よりやや古い。《天宝遺事諸宮調》は,唐の白居易の《長恨歌》をもとに潤色したもので,作者の王伯成は元初の劇作家である。形式的には最も新しく,組曲の構成が複雑になっている。なお《水滸伝》第51回には,女の芸人が諸宮調を演じる場面が描かれている。
→董西廂
執筆者:金 文 京
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