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イギリス議会史 イギリスぎかいし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イギリス議会史
イギリスぎかいし

イギリス議会は,遠くはアングロ・サクソン時代のウィテナイェモート(賢者会議)の系統をひき,1066年のノルマン・コンクェスト後に設けられたクリア・レギス(王会)に端を発する。それは国王の直属封臣によって構成されたもので,大会議(コムーネ・コンシリウム)と小会議があり,大会議が 13世紀半ばからパーラメント(議会)と呼ばれるようになった。特に,1265年国王ヘンリー3世に反抗したシモン・ド・モンフォールが州騎士や市民代表を集めて開いた集会が,一般にはイギリス議会の始まりとされている(→バロン戦争)。1295年の模範議会は,高級聖職者,一般聖職者,大貴族,州騎士,市民という当時の社会の身分制的構成を反映させていたが,1330年頃から一般聖職者が議会を脱退して別に聖職者会議(コンボケーション)をつくり,また州騎士と市民がいっしょになって,大貴族,高級聖職者とは別の会合をもつようになり,15世紀になるとイギリス議会は他国の身分制議会と違って上院貴族院),下院(庶民院)の二院制(両院制)の構成をとるようになった。また他国の身分制議会が絶対主義時代に消滅,有名無実化したのに対し,イギリス議会はチューダー朝の絶対王政下においても存続し,国王ヘンリー8世に協力して議会立法を通して宗教改革を遂行し,聖俗両方の貴族の勢力が衰えたこともあって,下院の重要性が著しく増大した。スチュアート朝に入ると,下院は委員会制度の拡充を通して立法の主導権を枢密院から奪い,さらに国家主権の所在をめぐって王権との対立を深め,1628年権利請願を提出して王の怒りを買い,11年間まったく招集されなかったが,1640年からの長期議会は,議会の同意なき課税を禁止し,またみずからの同意なき解散を拒み,3年に 1度の議会招集を保証させるなどの改革を実行した(→清教徒革命)。後期スチュアート朝においては再び反動化を企てた王権との対立が起こり,王位継承排除法案をめぐる政争からトーリー党ホイッグ党が誕生した。名誉革命を法的に確認した権利章典議会主権の基礎を固め,さらに王位継承すらも議会の立法によって規定した。ハノーバー朝の時代になると,議会と内閣と行政府をつなぐものとして首相が出現し,王に対してよりは議会に対して責任を負う責任内閣制度も着々整備された(→議院内閣制)。選挙制度の改革は,1832年の第1次選挙法改正によって着手され(→選挙法改正運動),第2次(1867),第3次(1884)と相次いで進められ,並行して無記名投票の採用(1872),腐敗行為防止(1883)がはかられ,議席再配分法(1885)によって一人区制が導入された。1911年の議会法によって下院の上院に対する優位が最終的に確認され,さらに男子普通選挙権(1918),男女平等の選挙権(1928)により,議会主権は国民主権の実質をもつにいたった。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

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