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谷時中 たにじちゅう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

谷時中
たにじちゅう

[生]慶長3(1598).土佐
[没]慶安2(1649).12.29.
江戸時代初期の南学派の儒学者。名は素有,通称は大学,のち三郎右衛門。農民の出で,15歳の頃仏門に入り天室和尚に朱子学を学んで還俗。天室の師,南村梅軒の学風を継承し,南学派を隆盛に導いた。門人に野中兼山山崎闇斎小倉三省らを輩出し,海南朱子学の祖とされる。主著『素有文集』『素有語録』。

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デジタル大辞泉の解説

たに‐じちゅう【谷時中】

[1598~1649]江戸初期の儒学者。土佐の人。名は素有。僧名、慈沖。一時、仏門に入ったが、還俗。南村梅軒に学び、南学派(土佐の朱子学派)を隆盛にした。門人に野中兼山山崎闇斎らがいる。著「素有文集」「語録」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

谷時中 たに-じちゅう

1599-1650* 江戸時代前期の儒者。
慶長4年生まれ。土佐(高知県)の人。仏門にはいるが,南村梅軒(ばいけん)の弟子天室(てんしつ)にまなび還俗(げんぞく),朱子学をとなえ南学(海南学派)を確立。門下に野中兼山,小倉三省(さんせい),山崎闇斎(あんさい)。門人の編集に「素有語録」「素有文集」がある。慶安2年12月29日死去。51歳。一説に慶長3年生まれ。名は素有。通称は大学,三郎左衛門。号は鈍斎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

谷時中

没年:慶安2.12.29(1650.1.31)
生年:慶長3(1598)
江戸前期の儒学者。名は素有,号は鈍斎,時中は字。浄土真宗の僧侶の子として土佐(高知県)に生まれ,剃髪して慈沖と称する。のち南村梅軒の門人である僧天室から儒学を学び,還俗して時中と改める。儒者となるが仕官せず,多くの門人を養成し,土佐南学の実質的な祖となる。門からは,野中兼山,小倉三省,山崎闇斎らが輩出する。資性は元来豪邁であったが,程朱学を信奉してから,謹厳な性格となる。闇斎の師道厳格なところも,時中の遺風に習うといわれる。著書としては門人が輯録した『素有語録』(全4巻),『素有文集』(全6巻)のほか,『二条家和歌作法』がある。

(柴田篤)

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世界大百科事典 第2版の解説

たにじちゅう【谷時中】

1598‐1649(慶長3‐慶安2)
江戸初期の儒者。名は素有,通称は大学。時中は号。土佐の人。初め仏門に入ったが,のち海南朱子学(16世紀の中ごろ,南村梅軒が土佐に伝えたといわれる儒学)の天室に従って儒学を学び,ついに儒者として朱子学を土佐に唱え,当時これを南学と称した。野中兼山,山崎闇斎らがその教えを受け,単に土佐海南朱子学の確立者たるのみならず,日本近世朱子学の首唱者となる。【平 重道

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大辞林 第三版の解説

たにじちゅう【谷時中】

1598~1649) 江戸初期の儒学者。土佐の人。名は素有。僧名、慈冲。僧籍に入ったが、南村梅軒に師事し、のちに還俗。儒学と医学を専門とし、土佐朱子学派(南学)の中心的人物となった。弟子に野中兼山・山崎闇斎らがある。著「素有文集」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

谷時中
たにじちゅう
(1598―1649)

江戸初期の土佐(とさ)南学(なんがく)派の儒者。土佐(高知県)の富豪の家に生まれる。名は素有(そゆう)、通称大学または三郎左衛門。出家して慈沖(じちゅう)と称し、真宗(しんしゅう)の僧侶(そうりょ)であったが、南村梅軒(みなみむらばいけん)の学を継いだ天室(てんしつ)(天質)の弟子となり、儒学を学ぶ。四書(ししょ)の研究に専念した結果、ついに還俗(げんぞく)し儒者となって程朱学(ていしゅがく)を奉ずるに至った。還俗後の字(あざな)は時中、鈍斎(どんさい)(鈍翁(どんおう))はその号。中国の朱子学者許魯斎(きょろさい)(許衡(きょこう))、薛敬軒(せつけいけん)(薛(せつせん))を追慕したという。文集6巻、語録4巻があるが、今日に伝わらない。天室の門にあったとき、『大学』の「財を生ずるに大道あり」の句について、天室が「資財は人を殺して身を喪(うしな)うの本なり。其(そ)の之(これ)を有することの難(かた)からんよりは、寧(むし)ろ之(こ)れ無(な)きの易(やす)きに若(し)かず」といったのに対して、「財もと人を殺す心なし。人貪奪(どんだつ)し、自ら敗亡を取る」と批判したという。ここに近世的精神の胎動をみることができる。私有の田地300石の大半を売って経書(けいしょ)を購入した逸話は有名。性豪邁(ごうまい)で権貴(けんき)を怖(おそ)れず、藩主山内忠義(やまのうちただよし)(1592―1665)の招聘(しょうへい)も辞した。その門から野中兼山(のなかけんざん)、小倉三省(おぐらさんせい)、山崎闇斎(やまざきあんさい)らの英才が出ている。[源 了圓]
『糸賀国次郎著『海南朱子学発達の研究』(1935・成美堂書店) ▽大高坂芝山著「芝山南学伝」(関儀一郎編『日本儒林叢書 第2巻』所収・復刊・1971・鳳出版)』

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