平安宮大内裏(だいだいり)の南部、朝堂院の西にある、朝廷の宴(うたげ)の場。大嘗会(だいじょうえ)、節会(せちえ)、賜宴、饗宴(きょうえん)、射礼(じゃらい)などの場となった。800年(延暦19)ころ建設されており、『今昔物語集』には、豊楽院は飛騨(ひだ)の工(たくみ)が建てたのだからすばらしいものにちがいないと書かれている。東西56丈(約170メートル)、南北136丈4尺(約413メートル)の広大な敷地の四方を築垣(ついがき)で囲み、南にある豊楽門など八門が開く。配置は、北に正殿の豊楽殿、その後方に清暑(せいしょ)堂、東西に並ぶ東華(とうか)堂・西華(せいか)堂以下の堂と楼が並び、南中央に儀鸞門(ぎらんもん)があり廊で結ばれている。
豊楽殿はもと乾臨閣(けんりんかく)といったが、神泉苑(しんせんえん)の正殿にこの名をつけたため改名された。東西九間、南北二間の母屋(もや)の四面に廂(ひさし)がある南向きの建物である。母屋中央に高御座(たかみくら)を置いた土壇があり、儀式のときには東西に皇太子・皇后の座を設けた。やがて朝廷の活動が内裏中心になるにつれて使用されなくなり、『大鏡』によれば10世紀には胆試(きもだめ)しの場となるほど、荒廃してしまったという。1063年(康平6)全焼してからは再建されることもなかった。
[吉田早苗]
平安宮における国家的な饗宴を行う殿堂。〈豊楽〉は〈とよのあかり〉とよみ,宴会の意。《西宮記》は〈天子宴会所〉と説明する。正月恒例の元日・白馬(あおうま)・踏歌・射礼(じやらい)・賭弓(のりゆみ)などの節会の宴,新嘗祭・大嘗祭の宴,外国使節の歓迎の宴などを行った。これらの饗宴のいくつかは9世紀後半以降紫宸殿で行われるようになる。朝堂院の西側に所在し,四周に築地をめぐらす。内部の構造は基本的に朝堂院と同じで,北部中央に天皇の出御する正殿の豊楽殿,その後ろに後殿の清暑堂,前庭の東西に諸臣の着座する顕陽・観徳堂,承歓・明義堂の4朝堂を配し,南面に回廊を通じて儀鸞門を開き,さらにその南の東西に朝堂院における朝集殿に相当する延英・招俊の2堂をおき,南面築地に豊楽門を開く。内部の諸殿堂,門,楼はそれぞれ回廊でつながれる(図参照)。平安宮創建の際に造営され,遅くも808年(大同3)までには完成した。1063年(康平6)に焼亡し,以後再興されなかった。豊楽院の名称は平安宮で初めてみえるが,平城宮において二つの朝堂院が東西に並存していることから,すでに平城宮にその原型があったとする説もある。
執筆者:今泉 隆雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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