精選版 日本国語大辞典 「朝堂院」の意味・読み・例文・類語
ちょうどう‐いん テウダウヰン【朝堂院】
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八省(はっしょう)院ともいう。元来は八省(太政(だいじょう)官に属する中央行政官庁。中務(なかつかさ)、式部、治部、民部、兵部(ひょうぶ)、刑部(ぎょうぶ)、大蔵、宮内の八省)の官人が執務し、公卿(くぎょう)が政務を評議して天皇が決裁する朝政の場で、宮城の中心であった。やがて律令(りつりょう)制の官僚組織が整備されるにしたがい、太政官以下の独立した官衙(かんが)(官庁)が成立し、朝堂院は即位・朝賀(ちょうが)などの儀式や饗宴(きょうえん)に使用されるようになる。この変化が規模にも現れ、藤原宮で最大となり、以後小型化した。難波(なにわ)宮以来の基本的な形は、回廊で囲まれた長方形の区画の北に大極(だいごく)殿(正殿)、その南側東西に朝堂(十二堂)、朝集(ちょうしゅう)殿(堂)が並んでいた。平安宮以外は大極殿と朝堂の間にも回廊があった。藤原宮以後、殿舎は瓦葺(かわらぶ)き。長岡宮、平安宮では、それまで朝堂院の真北にあった内裏(だいり)が東へ移り、朝堂院の独立性を高め、儀式会場的な性格も強まった。
平安宮の朝堂院は、遷都後の796年(延暦15)ごろ成立し、東西56丈(約170メートル)、南北134丈(約406メートル)。南面に応天門と栖鳳(せいほう)・翔鸞(しょうらん)二楼、その北に東西朝集堂・会昌(かいしょう)門があり、門の北に儀式のときに皇族・大臣以下官人の座となる十二堂が並び、その奥が一段高い竜尾壇(りゅうびだん)(道)で、正面に大極殿があった。866年(貞観8)に応天門が炎上、放火の嫌疑で伴善男(とものよしお)が失脚したことは有名。大極殿まで焼失する火事は三度あり、2回は再建されたが、1177年(治承1)焼失したのちは再建されなかった。
[吉田早苗]
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宮城(大内裏(だいだいり))にあって政務・儀式などが行われた宮内の中心的施設。朝堂の字句はすでに7世紀の文献に散見するが,朝堂院の語がみえるのは長岡京の時代であり,平安時代には八省院(はっしょういん)と称された。天皇の出御した大極(だいごく)殿,官人の朝座が設けられた朝堂,官人が列立する朝庭,その南の朝集堂などから構成される。このうち朝堂は12堂ないし8堂からなり,親王,太政官と八省をはじめとした主要な官司の官人が着座する朝座があって,律令国家の政務の中心である朝政が行われた。奈良時代には弁官殿・式部殿のように官司名が冠せられたが,818年(弘仁9)に中国風の呼称に改められた。
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…710年(和銅3)から784年(延暦3)まで営まれ,途中8年ほど中絶し,恭仁(くに)京(京都府相楽郡)等に都が遷されたことがあるが,70年にわたって存続した。南北約1km,東西1.3kmの広さをもち,その中に天皇の御在所であり日常生活の居所であった内裏(だいり),公の儀式,政治の場である朝堂院(ちようどういん)があり,さらに百官と総称された官司の建物があった。したがって平城宮は天皇の居所であると同時に,当時の律令国家の中央政府機構の所在地であった。…
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