豊竹麓太夫(読み)とよたけふもとだゆう[いっせい]

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊竹麓太夫」の意味・わかりやすい解説

豊竹麓太夫(1世)
とよたけふもとだゆう[いっせい]

[生]享保15 (1730). 大坂
[没]文政5 (1822)
義太夫節太夫通称鍋屋宗左衛門。大坂雑喉場の生まれで船場商人だったが,1世豊竹駒太夫の門下となり,宝暦7(1757)年豊竹座に初出座。しろうとから芸界に転ずる,いわゆる「大天狗」の嚆矢とされる。声量音域ともに恵まれ,表現力豊かな力強い芸風で知られる。明和2(1765)年の退転以降,再興と撤退を繰り返す豊竹座にあって重きをなし,寛政6(1794)年に紋下櫓下)となり,同 11年の『絵本太功記』の「尼ヶ崎」で評判をとり,88歳の高齢まで舞台を務めた。再演伝承の時代へと移行していく浄瑠璃界にあって,初演台本から独自の表現を創造した最後の名人と目される。(→人形浄瑠璃文楽

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朝日日本歴史人物事典 「豊竹麓太夫」の解説

豊竹麓太夫(初代)

没年:文政5.5.6(1822.6.24)
生年:享保15(1730)
江戸中・後期の義太夫節の太夫。大坂雑喉場の生まれで,通称鍋屋宗左衛門という素人出身。初代豊竹駒太夫の門弟。宝暦7(1757)年に豊竹座初出座。山の麓と謙遜した名。文化14(1817)年88歳まで出座記録があり,まれなる長寿。声域が広く,腹力は強くて声量もあり,表現力豊かだったようで,「絵本太功記」の「尼ケ崎の段」,「日吉丸稚桜」の「小牧山城中の段」,「蝶花形名歌島台」の「小坂部館の段」,「八陣守護城」の「正清本城の段」にその特色が伝わるといわれ,綺麗ごとでなく線を太く語る。派手な東風線上にあり,細部的にはギンの音をにじらせるのも「麓太夫風」。

(高木浩志)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「豊竹麓太夫」の解説

豊竹麓太夫(初代) とよたけ-ふもとだゆう

1730-1822 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
享保(きょうほう)15年生まれ。義太夫節の初代豊竹駒太夫の弟子。宝暦7年大坂豊竹座で初舞台。寛政6年大坂道頓堀(どうとんぼり)の若太夫芝居で櫓下(やぐらした)となり,大立者として文化14年88歳まで出演。明和4年豊竹座で木札10文の追い出し芝居(立ち見制度)をはじめた。文政5年5月6日死去。93歳。大坂出身。通称は鍋屋宗左衛門。

豊竹麓太夫(2代) とよたけ-ふもとだゆう

1766-1838 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明和3年生まれ。大坂の人。義太夫節の3代豊竹八重太夫の養子。初代豊竹麓太夫の弟子。2代豊竹佐渡太夫,3代豊竹湊太夫(みなとだゆう)をへて,文政13年2代を襲名。御霊(ごりょう)芝居の櫓下(やぐらした)となった。天保(てんぽう)9年4月4日死去。73歳。通称は九郎兵衛湊,松阪屋猪八郎。

豊竹麓太夫(3代) とよたけ-ふもとだゆう

豊竹八重太夫(とよたけ-やえたゆう)(5代)

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