人形浄瑠璃。時代物。13段。別名題《絵合太功記》。近松柳,近松湖水軒,近松千葉軒による合作。1799年(寛政11)7月12日から大坂若太夫芝居で初演。太閤記物(たいこうきもの)の代表作。1797年から1802年(享和2)にかけて出版された読本《絵本太閤記》などによって知られた秀吉一代記から,光秀の反逆を中心に脚色したもの。6月1日から13日までの物語を1日1段に構成した珍しい趣向。この時期,人形浄瑠璃は,歌舞伎に押されて興行不振だった。そこで人気を取り戻そうと,入場料などをおさえて,この趣向の新作を上演して好評を得た。
(1)発端 武智光秀は,蘇鉄を安土城に移植した尾田春長をいさめるが,逆に怒りにふれる。(2)六月一日の段 光秀は,春長と森蘭丸になお侮辱される。春長は,真柴久吉の応援のため,光秀に西国出兵を命じる。光秀は謀反を決意する。(3)二日の段 光秀は本能寺に春長を襲い,春長は討死する。(4)三日の段 久吉軍に囲まれた高松城の城主清水宗治(むねはる)の妹玉露(たまつゆ)の恋人浦辺山三郎は,敵情をさぐりにいくが,加藤正清にかくまわれる。(5)四日の段 玉露と安徳寺の僧は,和議の使者となる。(6)五日の段 久吉は,山三郎と玉露を帰す。宗治の死で和議が整い,春長の急死を知った久吉は,光秀を討つために都へ上る。(7)六日の段 光秀は,謀反をこころよしとしない母皐月(さつき)を思い,死を決意するが,止められる。(8)七日の段 鱸(すずき)重成は,足利の正統,慶覚を守護し,尾田方と戦うが,切腹したわが子孫市の首を差し出し久吉に和を請う。(9)八日の段 春長の法事に来合わせた十次郎は,真柴方の侍と争い,出陣の志を固める。(10)九日の段 光秀方の四王天(しおうでん)は,久吉に近づくが,討たれる。(11)十日の段 皐月の隠れ家で,十次郎は初菊と祝言をあげ,出陣する。旅僧となって宿を求めた久吉を,光秀は竹槍で突くが,皐月が身代りとなって死ぬ。十次郎も深傷を負って帰り,初菊に手を取られながら死ぬ。久吉と光秀は,天王山で勝負しようと別れる。(12)十一日の段 松田政道の妻柵(しがらみ)は,光秀の子,音寿丸を守る。(13)十二日の段 政道の父宗左衛門は,政道の子を音寿丸の身代りに討ち,久吉の実検に供え,死をもってわびようとするが,止められ,千利休と号する。(14)十三日の段 光秀は敗れて死ぬ。
中心は十段目〈尼ヶ崎閑居〉で,俗に《太十(たいじゆう)》と呼ばれる名場面。ほかに六段目〈妙心寺〉,七段目〈杉の森〉などもよく上演される。歌舞伎では,1800年(寛政12)11月大坂の中山徳次郎座(角の芝居)で,《恵宝太功記》として初演。〈太十〉はとくに人気狂言となり,各役にすぐれた型が伝わった。明智光秀物としては,08年(文化5)の4世鶴屋南北作《時桔梗出世請状(ときもききようしゆつせのうけじよう)》(《馬盥(ばだらい)の光秀》)とともに代表作。
執筆者:佐藤 彰
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浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。時代物。13段。近松柳(やなぎ)、近松湖水軒(こすいけん)、近松千葉軒(せんようけん)合作。1799年(寛政11)7月大坂・豊竹座(とよたけざ)初演。通称「太功記」。岡田玉山の読本(よみほん)『絵本太閤記』をもとに、明智光秀(あけちみつひで)の謀反から小栗栖(おぐるす)村における最期までを、6月1日から13日まで、1日1段(冊)ずつに分けて脚色。当時の法規に触れないように、登場人物の役名は明智を武智(たけち)、織田(おだ)信長を小田春永(おだはるなが)、羽柴(はしば)秀吉を真柴久吉(ましばひさよし)としている。初演の翌年には歌舞伎(かぶき)にも移された。とくに有名なのは、反逆者の悲哀と、若い男女の純愛を裂く戦争の非情を鮮やかに描いた6月10日「尼ヶ崎(あまがさき)」の段で、「太十(たいじゅう)」(「太功記十段目」の略)の通称で広く親しまれている。
武智光秀の母皐月(さつき)は息子の謀反を恥じ、尼ヶ崎に閑居。光秀の妻操(みさお)、息子十次郎(じゅうじろう)、その許嫁(いいなづけ)の初菊(はつぎく)が見舞いにくる。十次郎は父に従うため、討ち死にを覚悟でいとまごいをするが、その心を察した皐月は、彼の出陣に先だって初菊と祝言させてやる。今宵(こよい)、この家へ一夜の宿を求めた旅僧は久吉の変装で、それを追ってきた光秀は久吉を討とうとして、過って皐月を竹槍(たけやり)で刺す。そこへ重傷を負った十次郎が戻って敗戦の模様を伝え、父の身を気遣いながら死ぬ。さすがの光秀も恩愛の情に迫られて泣く。おりから久吉が現れ、光秀と山崎での一戦を約して別れる。なお、6月1日~5日の段では、春永から侮辱を受けた光秀の本能寺における弑逆(しぎゃく)や、高松城主清水宗治(むねはる)の妹玉露(たまつゆ)と恋人浦辺山三郎のエピソードなどを描き、そのあと、妙心寺における光秀の動揺(六日の段)や、鱸重成(すずきしげなり)の子孫市(まごいち)が足利(あしかが)家の遺児を助けるため、命を捨てる話などが描かれている。
[松井俊諭]
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…ちなみに織田信長を尾田春永,羽柴秀吉は真柴久吉といいかえられるのが約束であった。それら〈太閤記物〉のなかで光秀像を決定づけたのは,1799年(寛政11)初演の浄瑠璃《絵本太功記》であろう。この作品は歌舞伎では翌1800年に上演されている。…
…《時代織室町錦繡》は8段物の技巧作で,81年2月初演。寛政・享和期(1789‐1804)に多く作られ,89年《木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがつせん)》,91年《彫刻左小刀》,93年《蝶花形名歌島台》,94年《唐錦艶書功(からにしきえんしよのいさおし)》《日本賢女鑑》,96年《鬼上宦漢土日記(おにしやがんもろこしにつき)》,99年《絵本太功記》《太功後編の旗颺(たいこうごにちのはたあげ)》,1801年《日吉丸稚桜(わかきのさくら)》など16作があり,この時期は太閤記物の最盛期であり,注目作の《木下蔭狭間合戦》と代表作の《絵本太功記》とで終始した。前者は桶狭間(おけはざま)の合戦を背景としたもので歌舞伎においてもくり返し上演された。…
…それをさらに応用したのが初世の高弟岡本阿波太夫で〈愁ひ節〉として知られた。文弥節を吸収したのは義太夫節で,《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の〈政岡忠義の段〉の,〈忠と教える親鳥の〉は文弥節,《絵本太功記》十段目の〈涙に誠あらわせり〉は文弥オトシである。そのほか,山本角太夫(かくだゆう)の角太夫節も影響を受け,一中節も文弥の泣き節をとり入れたといわれ,新内節で使われるウレヒは,阿波太夫の影響といわれる。…
※「絵本太功記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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