出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安初期の官人、文人。その祖先は備中(びっちゅう)国賀夜郡の土豪の系譜であろうが、右京に本貫地のあった当時の代表的な知識人。経史に精通し、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の開いた芸亭(うんてい)院で数年間群書を極め、無類と評された。延暦(えんりゃく)年中(782~806)には文章博士(もんじょうはかせ)となり、797年(延暦16)には東宮学士(とうぐうがくし)を兼ねて皇太子安殿(あて)親王の養育にあたった。皇太子即位(平城(へいぜい)天皇)ののち、信任されて従(じゅ)四位下式部大輔(たいふ)となったが、藤原薬子(くすこ)らとは同調せず、平城上皇の平城遷御にも従わなかった。薬子の変ののち辞任せんとしたが、嵯峨(さが)天皇の信任を得て播磨守(はりまのかみ)となり、在任3年で病のため入京し、宇治別業で没した。とくに勅があり、尊崇した莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の陵下に埋葬することが許され、正四位下が贈られたが、ときに人は国華を遇するにはなお不足であるといったという。
[佐藤宗諄]
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…芸亭の〈芸〉は〈芸〉とは別字で,一種の香草をいい,虫害を防ぐために書巻の中に入れたことから書籍の意にも用いられる。平安初期の学者であった賀陽豊年(かやのとよとし)も,宅嗣に好遇されて数年間芸亭で諸書を閲覧したという。しかし,828年(天長5)に空海が作った綜芸種智院式(しゆげいしゆちいんしき)によれば,そのころにはすでに芸亭はほろびていたようである。…
※「賀陽豊年」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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