河内国石川郡赤坂(現,大阪府南河内郡千早赤阪村)にあった山城。上・下の2城からなり,元弘の乱にさいし楠木正成が挙兵した城として著名。正成は1331年(元弘1)後醍醐天皇の笠置没落とともに挙兵した。これが下赤坂城で,近くに正成館の伝承地がある。この城は急造の城で,塀を二重にするなど工夫をこらし,正成は知謀をつくして戦ったものの長期間支えることができず,みずから城を焼いておちのびた。落城の状況から幕府方は正成の自害を疑わなかったが,このあたり鎌倉武士と畿内悪党との考え方の差がみられて興味ぶかい。正成没落後,六波羅探題は下赤坂城に紀伊国の湯浅定仏を入れたが,32年正成はこれを奪回,ついでその南方に千早城の前城として上赤坂城を築き,弟正季・平野将監らを配して再挙した。翌年2月,上赤坂城は阿蘇治時らの猛攻をうけ,城兵はよくしのいだものの,水路を断たれて落城した。以上の合戦の経過は,《太平記》に記されるほか,《楠木合戦注文》にも若干の史料がある。両城跡とも,国指定史跡。
執筆者:熱田 公
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鎌倉末期から南北朝期に楠木(くすのき)氏が拠(よ)った城。上赤坂城と下赤坂城の二つからなり、ともに大阪府南河内(かわち)郡千早(ちはや)赤阪村にある。千早城を詰めの城、上赤坂城を本城、下赤坂城を前衛の城とするもので、1331年(元弘1)笠置(かさぎ)山城が落ちた直後、楠木正成(くすのきまさしげ)が護良親王を奉じて、本丸、二の丸、三の丸、出丸からなる下赤坂城を築いたのが始まりである。正成は奇計をもって鎌倉幕府の大軍を悩ませたが、同年10月に攻め落とされた。上赤坂城は、翌1332年、正成が千早城に再挙したときに築かれた山城(やまじろ)で、楠木氏の本城とされ、部将の平野将監(ひらのしょうげん)が守っていた。本丸、二の丸の二つの曲輪(くるわ)からなり、周囲には帯曲輪がみられる。1360年(正平15・延文5)北朝方の細川清氏(ほそかわきようじ)に攻められて陥落した。
[小和田哲男]
鎌倉末~南北朝期に楠木正成が拠点とし,大阪府千早赤阪村にあった山城。上赤坂城と下赤坂城があった。1331年(元弘元)元弘の乱で正成は下赤坂城に籠城。幕府軍により落城するが,翌年奪還。このあと上赤坂城・千早城が築かれる。33年には上赤坂城も落城し千早城を本拠とした。南北朝期にも南朝方の拠点となり,60年(延文5・正平15)に落城した。下赤坂城の正確な位置は不明。上赤坂城は郭・堀切が残るが,現遺構は等高線に沿って続く横堀があり,戦国期に改修をうけたとみられる。周辺尾根上には猫路山城・国見山城・枡形城などの出城があり,赤坂城塞群を形成していた。国史跡。
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