河内国金剛山の西側(現,大阪府南河内郡千早赤阪村)にあった南北朝時代の山城。千剣破城とも書く。1331年(元弘1)赤坂城から落ちた楠木正成(くすのきまさしげ)は翌年冬,当城を築いて再起した。33年1月,鎌倉幕府は護良(もりよし)親王の拠る吉野と当城に大軍をさしむけた。攻撃軍の編成は《楠木合戦注文》によって知られる。正成は知謀をつくして攻撃にたえ,攻防の状況は《太平記》にくわしく描かれるほか,和田助家軍忠状(和田文書)等にも記される。建武新政以後も楠木正行(まさつら)・正儀らが拠ったが,92年(明徳3)正勝が畠山基国に敗れ,以後廃城となった。《太平記》に〈この城東西は谷深く切って,人の上るべき様もなし。南北は金剛山につづきて,しかも峯峙(そばだち)たり。されども高さ二町計(ばかり)にて,廻り一里に足ぬ小城〉と描かれるように,金剛山より西走する支脈先端の小独立峰に城跡があり,標高670m,三方は深い渓谷をなしている。五つの郭跡がみられるほか,空堀,堀切などが遺存し,二の丸跡には千早神社がある。国指定史跡。
執筆者:熱田 公
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南北朝期の城。大阪府千早赤阪(あかさか)村千早にある山城(やまじろ)で、千剣破城とも書き、金剛山(こんごうざん)城ともいう。1332年(元弘2)冬、楠木正成(くすのきまさしげ)によって本城赤坂城の詰(つめ)の城として築かれた。翌年赤坂城が落城ののちは楠木氏の本拠となり、鎌倉幕府の大軍をここに釘(くぎ)づけにして悩ませたことは『太平記(たいへいき)』などによって広く知られている。城は標高1125メートルの金剛山の中腹に築かれ、五つの曲輪(くるわ)からなり、南は千早谷、北は北谷、東は風呂(ふろ)谷、西は妙見谷という断崖(だんがい)に臨み、馬の背のような地形の頂を削平した要害にあった。正成のあと、正行(まさつら)、正儀(まさのり)、正勝(まさかつ)と伝え、1392年(元中9・明徳3)畠山基国(はたけやまもとくに)に攻められ落城。城跡は国史跡。
[小和田哲男]
千剣破城・茅葉屋城・金剛山城とも。大阪府千早赤阪村にあった楠木正成が詰の城とした南北朝期の山城。下赤坂城落城後,1332年(元弘2)の正成の再挙兵のときに築造された。上赤坂城の落城後は正成の本拠となり,幕府軍の攻撃に最後まで落城しなかった。「太平記」には,正成が千早城を舞台とし,奇策で幕府軍を悩ませたようすが記される。南北朝期にも楠木氏が拠ったが,92年(明徳3・元中9)正勝が畠山基国に攻められて落城し廃城。金剛山から延びる標高673mの尾根に位置する。南北朝期の城らしく,郭の削平は不十分なところがある。二の丸跡に千早神社が祭られる。城跡は国史跡。
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