中国、東晋(とうしん)の王羲之(おうぎし)の書。永和9年(353)3月3日、会稽(かいけい)内史であった右将軍王羲之は、謝安、許詢(きょじゅん)、孫綽(そんしゃく)らの名士を会稽郡山陰県(浙江(せっこう)省 紹興(しょうこう)市)の名勝蘭亭に招き、子の玄之・献之ら一族も加え、総勢42名で宴を催した。人々は曲水を流れ下る觴(さかずき)を手に、自作の詩を朗詠した。このときの詩27編を編んだものが『蘭亭集』であり、それに付された序が「蘭亭序」である。蚕繭紙(さんけんし)に鼠鬚筆(そしゅひつ)を用いて、王羲之自らの揮毫(きごう)になる28行、324文字。後日、何度も清書が試みられたが、即興で筆をとった最初のものには、はるかに及ばなかったという。子々孫々に伝えられ、やがて7代の孫・智永(ちえい)の弟子弁才から、王羲之書跡の熱狂的収集家であった太宗の愛蔵となる。この経過は「賺蘭亭(たんらんてい)」として有名であるが、陰謀の果ての略奪に等しいものであった。太宗の死後は、遺命によってその昭陵に陪葬されたという。現在伝えられるものは、太宗在世中に欧陽詢(おうようじゅん)、虞世南(ぐせいなん)、褚遂良(ちょすいりょう)らに下命した臨書、あるいは搨書人(とうしょにん)による模本である。「定武本」「張金界奴本」「神龍半印本」など、その数はきわめて多い。
[尾下多美子]
『宇野雪村編『蘭亭叙三種』(1981・雄山閣出版)』▽『神田喜一郎・西川寧監修『書跡名品叢刊22 蘭亭叙七種』(1959・二玄社)』▽『『原色法帖選5 蘭亭叙五種』(1985・二玄社)』
中国,東晋の王羲之が《蘭亭集》に書いた序文。その法帖を《蘭亭帖》という。王羲之が,会稽内史在任中の永和9年(353)3月3日の節句の日に,謝安ら会稽(浙江省紹興)の名士41人が名勝蘭亭に会し,悪をはらう祭りの酒宴を催した。その時,人々のつくった詩を集め,王羲之みずから筆をふるって序文を書いた。その真跡は王羲之7世の孫にあたる僧智永に伝えられたが,唐になって,王羲之の書を酷愛する太宗の手に帰し,その遺命によって昭陵に殉葬せしめられて亡失してしまった。したがって,今日伝わっている諸種の法帖は,太宗在世中に搨書人(とうしよじん)(複製専門家)に命じてつくらせた模本か,欧陽詢(おうようじゆん),虞世南,褚遂良(ちよすいりよう)の臨書といわれるものかであるが,王羲之の書法を髣髴(ほうふつ)させるものとして,重要視されている。
執筆者:外山 軍治
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…その間永和9年3月3日上巳の日,この地の名勝蘭亭に集まって禊(みそぎ)を行い,曲水に杯を浮かべて宴を催したことは有名である。このとき来会者がつくった詩を集めて1巻とし,その巻首に王羲之みずからが筆をふるって書いたのが有名な《蘭亭序》である。355年退官後もこの地に住み,10年間の余生を楽しんだ。…
…これらは印刷術や写真術が発達する以前の法書複製法で,最も唐代に盛行し,唐摹本(とうもほん)というのはこれを指す。太宗(李世民)が《蘭亭序》の真本を入手してこの方法で複写させ,諸王や重臣に与えたことや,則天武后の作らせた《万歳通天真帖》などはこの例として有名である。奈良時代,日本に請来され,《東大寺献物帳》に記載のある正倉院現蔵の王羲之《喪乱帖》などはすべてこの方法によったものであるが,真跡とほとんど見分けがつかないほど精巧なことで知られている。…
※「蘭亭序」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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