和服を着るときに容儀上、保温上から足に履くもの。足袋の構造は甲と底とからなり、甲は先端で親指を入れる内甲(一つともいう)と他の4本の指を入れる外甲(四つ)に分かれ、足首まで包む。指股(また)があるのは、鼻緒のある履き物に都合よくつくられたものである。足首のところを留めるのに、一般には明治中ごろまでは紐(ひも)で結んでいたが、その後はこはぜ掛けのみとなった。こはぜは真鍮(しんちゅう)でつくられ、足首から上の筒の長さに応じて1~7枚つけられている。普通は3~4枚だが、舞踊用には5~7枚ついた筒長のものが適する。これは素肌が見えず、着物が短めに着られて裾(すそ)さばきがよいためである。こはぜ1枚ものは芝居の奴(やっこ)さんの紫繻子(しゅす)足袋にみられる。足袋の大きさは、足袋底の指の先からかかとの端までの長さを計って、文数で表す。文尺(もんぎじゃく)(文規尺)は寛永(かんえい)通宝の一文銭の直径を単位としてつくられ、1文は鯨(くじら)尺で6分4厘(2.42センチメートル)であり、端数は3分、5分(半(はん)という)、7分とした。最近は大きさをセンチメートルで表示している。
足袋に用いられる表地の材料はキャラコが多く、ブロード、繻子、ナイロン、高級品として羽二重(はぶたえ)がある。礼装用には男女とも白が用いられる。普段用も女は白が普通であるが、昭和の初めごろまでは、汚れの目だたない色別珍(べっちん)が好まれた。男の日常用としては紺キャラコ、黒繻子が用いられる。おしゃれ用や芸能関係用には色足袋、柄(がら)(小紋、縞(しま))足袋がつくられている。裏地には平織木綿が一般的で、防寒向きとしてはネル地が使われる。足袋底は雲斎(うんさい)織(畦(うね)刺しを織り出した地の粗いじょうぶな綿布)の白または紺で、とくにじょうぶなものとして、昭和の初めまで石底(いしぞこ)織(厚地の粗(あら)くてじょうぶな綿織物)が用いられた。仕立ては袷(あわせ)が普通であるが、夏用の特殊なものとして、単(ひとえ)仕立てのものもつくられている。足袋は足にぴったりとあって、皺(しわ)、たるみがないのがよいとされる。
現在は既製品が全盛で、足袋の産地としては埼玉県行田(ぎょうだ)市が代表的であるが、明治ごろまでは自家製もあり、足袋型を用いて裁断し、手作りしたのである。現在はわずかに残る老舗(しにせ)で、客の注文を受けて誂(あつら)え足袋を製造している。足袋に関するものに、汚れ防止や雨よけのカバー、防寒用としての足袋ソックスが、ナイロントリコット、ウーリーナイロン、毛糸または合繊パイル、ビニルなどでつくられて市販されている。
[岡野和子]
足袋は古くは皮(革)でつくったところから「単皮」の文字をあてたといわれる。革は鹿(しか)革が多く使われ、形は今日の足袋のように、つまさきが二分されていない、襪(しとうず)の系統のものであった。なめし革の足袋は、初めは戦場や旅など野外で用いられたが、しだいに屋内で防寒に用いられるようになった。鎌倉時代の末になって、草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)などに便利な、つまさきが二つに分かれた足袋が生まれた。『宗五大雙紙』によると、武家社会では足袋着用に関しての規制のできたことがわかる。足袋を履くことのできる期間は、10月1日から翌年の2月20日までとされ、50歳以上の者のみとした。若い者は病人であっても主君の許しを必要とし、これを足袋御免といった。この制度は1862年(文久2)の武家服制改革まで続いたのである。
足袋に用いられた革は、南蛮貿易やオランダ貿易による舶来品である。女子は紫革、男子は白や小紋革が用いられた。足首から上の筒長の形で、革紐をつけて、これを結んで留めた。名古屋の徳川美術館には、徳川家康所用の白足袋が残されている。木綿足袋が普及したのは明暦(めいれき)の江戸大火(1657)後で、革不足と価格の急騰がきっかけとなった。天和(てんな)(1681~84)のころ、畦刺足袋といって、刺し縫いした足袋が流行し、貞享(じょうきょう)(1684~88)から元禄(げんろく)(1688~1704)にかけては絹、綸子(りんず)、絖(ぬめ)などのぜいたくなものや、白晒(さらし)、金巾(かなきん)、雲斎織など種々のものが流行した。また、このころ紐足袋にかわって、ボタン掛け、こはぜ掛けのものが現れた。享保(きょうほう)年間(1716~36)には将軍吉宗(よしむね)が鷹狩(たかがり)に紺の刺足袋を履いたことから、武士の間でこれに倣うものが出た。町人は白木綿のほか、黄、薄柿(うすがき)、ねずみ色なども用い、その後、紺や黒が多く履かれるようになった。
江戸末期にみられた紋羽(もんぱ)足袋は、冬の防寒用で紋羽(綿ネル)を裏につけたもの。表裏とも共布を使ったものもある。吉原(よしわら)足袋は、遊廓(ゆうかく)に通う客が白足袋の汚れを防ぐために履いた紙製の足袋で、一夜足袋ともいう。花足袋は子供用のもので、茜(あかね)染め白抜きの紋羽でつくり、つまさきの割れていない紐足袋である。奈良足袋は表裏の間に真綿を入れて仕立てたもので、猿楽(さるがく)俳優などが用いた。農村では武家に倣って足袋御免の制を敷いている所もあったが、町人の足袋は束縛がなく、時代によって嗜好(しこう)の変化があった。
[岡野和子]
保温や装いを整えるために用いる指股のある靴下状の和装用はきもの。《和名抄》には野人がはく鹿革の半靴(ほうか)を単皮(たんぴ)としているが,平安時代の襪(しとうず)を前身とする説もある。いずれも指股のない靴下状であったが,平安末期ころの草履,草鞋(そうかい)などの前鼻緒のついたはきものが親指と4指を分ける必要性を生じさせた。初めは武士が用いたが,室町時代には貴賤男女とも革足袋をはいた。武家では燻革(ふすべがわ)の足袋は戦場のみに限るとか,10月1日から2月20日までの冬に限るという規定もできて民間にも影響を与えた。50歳以下は病身者のみ願い出ることによって許されるという〈足袋御免〉の制もあり,これらは尚武と素足を礼とする風習による。室町時代から染韋(革)の足袋が用いられるようになり,桃山時代には男性は小桜文様の革足袋を用いた。
木綿の足袋は長岡三斎の母が茶事に出るごとにはかせたのが始まりという。茶道では木綿物を数寄屋足袋と呼び,革足袋は使用しなかった。明暦3年(1657)の江戸の大火で革羽織などの火事装束の必要性から革の価格が高騰し,木綿の足袋が作られるようになる。貞享(1684-88)ごろから女性は晒木綿の白,元禄(1688-1704)にはぜいたくな絹足袋も出現し,男性は薄柿色の木綿足袋をはくようになる。紫の革足袋は女性に限られていたが,寛文(1661-73)には,白革,浅葱(あさぎ)革の染足袋もあり,筒長の足首をひもで結ぶ様式であった。鹿のほか犬革も用いられ,正徳(1711-16)のころには舶来の革も用いたが,洗濯がしにくく臭気がはげしい革足袋は,木綿の普及にともない木綿足袋に取って代わられる。宝永(1704-11)にはくつ足袋といわれる足首の短い〈こはぜ掛け〉の足袋が流行,こはぜは鯨のひげで作られた。正徳のころにはボタン掛けもあった。江戸時代後期には男性は白か紺,女性は白の木綿足袋でひも付きのものが,明治中期になるとシンチュウ(真鍮)の三枚こはぜが一般化する。
現在の足袋は袷(あわせ)と単(ひとえ)仕立てがある。表はキャラコや化繊,裏は天竺木綿の白足袋が一般の婦人用で,冬には裏ネルの足袋がある。底は関東は雲斎(うんさい)織,関西は綾織で,石底(いしぞこ)と呼ぶ厚手木綿は職人用。男性は儀式用に白足袋,普段には表が黒繻子か紺キャラコをはく。小紋柄の色足袋は踊りか普段ばきで,ほかに綿ビロードの色足袋,メリヤスがあるが数は少ない。特殊なものに花嫁用の絹足袋もある。夏はキャラコの単,裏麻,両面麻の袷が涼しい。こはぜは3枚から6枚までで,4枚のものがはきやすい。汚れを防ぐためのナイロンなどの足袋カバーもあるが,すべりやすく汚れが着物の裾につくので,他家への訪問には替足袋を用意したほうがよい。茶道では道中の足袋をはきかえるきまりがある。
足袋の寸法は寛永通宝の一文銭の直径2.4cmを単位として〈文(もん)〉で呼ばれたが,1959年の尺貫法廃止によりセンチに変わった。女物の標準は戦前の9文(21.5cm)から現在10文(24cm)に変わり,和装の減少とともに生産量も激減している。生産地は埼玉県行田市,大阪府堺市,福岡県久留米市などが知られている。なお,職人などのはく地下足袋(じかたび)は,足袋の名称はあっても,用途,素材ともに異なるものである。
執筆者:潮田 鉄雄+山下 悦子
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…各地に伝えられる式部の伝説には,瘡(かさ)を病んだ式部が,日向国の法華岳寺の薬師如来に平癒を祈ったが,いっこうに効験がないので〈南無薬師諸病悉除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ〉と詠むと,夢の中に〈村雨はただひと時のものぞかし己が身のかさそこに脱ぎおけ〉という返歌があって,難病もたちまちに平癒したという話や,アユ(鮎)の腸を意味する〈うるか〉ということばを,たくみに詠みこんださまざまな秀歌を作ったという話など,歌にまつわるものが多く,中には小野小町や西行の伝説と同じ内容のものもある。また,佐賀県には,式部が鹿の子であったために足の指が二つに割れており,親がそれをかくすために足袋というものを作ったという伝説もある。和泉式部集和泉式部日記【大隅 和雄】。…
※「足袋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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