中世武家文書の一つ。中世において武士は軍勢催促にもとづき,その一族郎等を率いて所定の場所へ着到し,まず着到状を提出する。ついで戦いに臨み身命をかけて功労をあげたとき,その戦いの場所,勲功の概要などを記し,さらに敵を何人討ったかなどの軍忠のありさまをより具体的に述べ,また自分自身や一族郎等のこうむった被害を上申する文書を軍忠状という。いずれも戦いにおける勲功を第三者の証人によって確認されることが必要であった。現存する軍忠状は蒙古襲来後にその原初的形態の文書がみられ,南北朝時代より戦国時代に及ぶ。平安末から鎌倉時代中ごろまでの勲功の報告は直接口頭あるいは証拠品の提示(ぶんどった首など)によって行われたらしく,それを文書にして提出することはなかったようである。おそらくは戦いの規模の拡大,参加者の増加により文書形式に変化したものと考えられる。軍忠状の様式は,まず〈何某申軍忠事〉〈何某申〉〈目安何某申〉〈注進……〉と書き出すことが多く,終りを〈以此旨可有御披露候恐々謹言〉〈粗目安言上如件〉のごとく結び,年月日,差出書,あて名(省略することもある)を記す。これを受け取った側では記載内容を確かめ,あるいは証人にただし,誤りがなければ文書の奥にまたは袖に〈承了(花押)〉と証判を記して差出者へ返却する。時代により記載の方法に変化が多く,早いころのものには戦いの経過や勲功について大略述べたものが多いが,やがて戦いの戦果についてより詳しく書き記した軍忠状へと変化していった。また合戦1回ごとに作成されていたのが,後には何回かの戦いについてまとめて提出されるようにもなった。さらに敵の頸(くび)をいくつ取ったかを具体的に記した〈分取頸注文〉,味方が何人手負(ておい)(負傷)したかを書き記した〈手負注文〉などと称せられる文書の出現をみた。なお一連の軍忠状で大将側の証判が加えられた初見は1333年(元弘3)3月28日付の伊予国御家人忽那重清のものである(《忽那文書》所収)。
→軍功書
執筆者:高橋 正彦
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中世の武士が合戦における自分の功績を書き上げ、上申した文書。上申された文書には軍事統率者(侍大将、軍奉行(いくさぶぎょう))が証判を加え、差出人に返却した。証判は「承了(うけたまわりおわんぬ)」または「一見了(いっけんしおわんぬ)」と記して花押(かおう)を加えた簡単なものである。差出人はこの証判が与えられた軍忠状をもって、後日、恩賞や所領安堵(あんど)を請求した。
軍忠状は蒙古(もうこ)襲来のあった翌1282年(弘安5)のものを初見とするが、多くみられるようになるのは1333年(元弘3)建武(けんむ)新政前からである。軍忠状の形式はさまざまであるが、書状、請文(うけぶみ)、注進(ちゅうしん)状、言上(ごんじょう)状、目安(めやす)状の体裁をとるものが多く、記載される軍忠の内容も、1回の戦闘分のみを記すものと、数回の軍忠を一括して記すものとがあった。
[服部英雄]
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…そのために〈系図知り〉などと呼ばれる系図の偽作者が村々を回ったりした。戦国大名の軍忠状に偽作が多いのも同じ目的で作られたためである。農民間では由緒のほかに,領主との関係も大きな要素となり,領主から苗字帯刀を許されるとか,拝領物があるとかが家格を上げるものとされた。…
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