日本歴史地名大系 「近江国府跡」の解説
近江国府跡
おうみこくふあと
奈良時代から平安時代に
国庁は廊で結ばれた前殿と後殿の正殿部分と、前殿の東西両側に位置し、廊(六・三メートル)で結ばれた南北に長く延びる東西脇殿から構成され、いずれも瓦積基壇を有していた。基壇上部は後世の耕作により削平され、建物の礎石は失われていたが、基壇の規模や廊の幅などから前殿は東西七間(二八・五メートル)×南北五間(一八・五メートル)、後殿は東西七間(二八・五メートル)×南北四間(一六・五メートル)、東西脇殿は東西二間(九・二メートル)×南北一六間(四九メートル)の長大な建物が想定されている。さらに脇殿の南には玉石敷遺構があり、のちにこれを廃して楼閣風の建物(二間四方)が建てられたようである。これらの建物群は二重の築地で囲まれ、築地南辺中央に中門を想定している。中門の南約一〇〇メートルの地点には南門跡があり、瓦積基壇の一部と礎石の根石部分が検出され、南門から北に約三二〇メートルの地点には北門基壇の痕跡が認められた。この建物配置は宮都の大極殿・朝堂院を小規模・簡略化したような形態を呈し、地方官衙の典型を示すものとしてその後の国府研究の進展に大きく寄与した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報