道祖王(読み)ふなどのおう

改訂新版 世界大百科事典 「道祖王」の意味・わかりやすい解説

道祖王 (ふなどのおう)
生没年:?-757(天平宝字1)

天武天皇の孫,新田部親王の子。《万葉集》に作歌がある。737年(天平9)従四位下,翌年散位頭,740年従四位上,大膳大夫から中務卿在任中,756年(天平勝宝8)聖武天皇の遺詔皇太子となるが,757年3月,諒闇中に志淫縦にあり,教勅を加えても改悛なしとして廃された。諒闇中ひそかに侍童に通じ,先帝に恭しからずして喪礼に合わず,機密を民間に漏らし,教勅にも反省せず,好んで婦言を用い,狼戻(ろうれい)多く,春宮を出て夜ひとり舎に帰り,自分から拙愚で重任に堪えないと言うともある。同年7月橘奈良麻呂の変右京の宅を包囲され,首謀者のなかに名は見えないが,百済敬福(くだらのけいふく),船王らの拷問を受け,首謀者5名とともに杖下に死んだ。このとき麻度比(まどひ)と改名されていた。《日本霊異記》下巻に類似した説話があるが,《続日本紀》の記事とかなりの相違がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「道祖王」の意味・わかりやすい解説

道祖王
ふなどおう

[生]?
[没]天平宝字1(757).奈良
奈良時代前期,天武天皇の皇子新田部 (にいたべ) 親王の子。中務卿となり,天平勝宝8 (756) 年には聖武太上天皇の遺詔により孝謙天皇 (→称徳天皇 ) の皇太子となった。翌天平宝字1 (757) 年藤原仲麻呂らの策動素行の乱れを理由に皇太子を廃された。これを期として仲麻呂勢力に不満をもつ橘奈良麻呂を首謀者とする仲麻呂転覆に王が加担したとして捕えられ,拷問にかけられて死亡

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「道祖王」の意味・わかりやすい解説

道祖王
ふなどおう
(?―757)

奈良時代の貴族。孝謙(こうけん)天皇末年の皇太子。新田部(にいたべ)親王の子。塩焼(しおやき)王の弟。737年(天平9)従(じゅ)四位下、740年従四位上、756年(天平勝宝8)5月聖武(しょうむ)太上天皇崩御の際、遺詔により皇太子に立てられた。しかし翌年3月諒闇(りょうあん)中に淫(みだ)らなことをし、教勅を加えても改め悔いないとの理由で、藤原仲麻呂(なかまろ)らにより廃せられた。同年6月28日橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱が暴露すると右京の宅で連座逮捕され、7月4日杖(じょう)下に死んだ。『万葉集』に一首がある。

[横田健一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「道祖王」の解説

道祖王 ふなどおう

?-757 奈良時代,新田部(にいたべ)親王の王子。
天武天皇の孫。塩焼王の弟。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年聖武(しょうむ)太上天皇の遺詔で孝謙天皇の皇太子にたてられたが,諒闇(りょうあん)中の素行などを理由に9年3月廃された。橘奈良麻呂(たちばなの-ならまろ)の変に連座,麻度比(まとひ)と名をあらためられ,拷問をうけて同年7月4日死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の道祖王の言及

【淳仁天皇】より

…この関係から,仲麻呂は彼の立太子と即位を望んだ。時の皇太子は聖武太上天皇の遺詔によって立太子した道祖(ふなど)王(新田部親王の子)であったが,757年(天平宝字1)3月に廃され,翌4月に大炊王が立太子した。さらに,同年7月の橘奈良麻呂の変によって藤原仲麻呂が権力を確立したあと,758年8月,即位した。…

※「道祖王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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