改訂新版 世界大百科事典 「橘奈良麻呂の変」の意味・わかりやすい解説
橘奈良麻呂の変 (たちばなのならまろのへん)
奈良時代の中ごろ,橘奈良麻呂を中心とするグループによって計画された藤原仲麻呂打倒未遂事件。745年(天平17)ごろから奈良麻呂は藤原氏の勢力に反発し,同志を募っていた。奈良麻呂らは阿倍内親王(光明皇后の女)が立太子している事実さえ無視していた。しかし749年(天平勝宝1)7月聖武天皇の退位によって孝謙天皇(阿倍内親王)が即位し,藤原仲麻呂は参議から一挙に大納言に昇進した。また,光明皇太后の大権行使のため,皇后宮職を紫微中台(しびちゆうだい)に発展改組し,長官に仲麻呂が就任した。こうして光明皇太后と仲麻呂が着々と実権を掌握していくことに奈良麻呂はあせり,反藤原氏,反仲麻呂勢力の結集をはかった。また755年11月奈良麻呂の父で左大臣の橘諸兄が密告されて翌年2月辞職し,757年(天平宝字1)1月に没したことも,奈良麻呂はじめ反藤原氏・反仲麻呂勢力の敵対心を強めたであろう。さらに756年5月聖武太上天皇が没し,その遺詔で立太子した道祖(ふなど)王を仲麻呂が757年3月に廃し,かわって仲麻呂と関係の深い大炊王(のち淳仁天皇)を立太子させ,藤原氏を皇族と同等にあつかう措置がつぎつぎと実施された。757年5月,仲麻呂は紫微内相となって軍事権を掌握し,大納言でありながら大臣の待遇をうけるようにしたことなど,数々の専横により事態は急速に緊迫していった。そして6月の人事異動で,反仲麻呂勢力の中心人物の一人である大伴古麻呂(こまろ)が陸奥按察使兼鎮守将軍にされ,奈良麻呂も兵部卿のポストを奪われたことをきっかけに,仲麻呂打倒計画を実行にうつそうとした。この6月中に,一党は奈良麻呂の家や図書寮辺の庭,太政官院の庭などで密談をくりかえしている。しかし密告があいつぎ,とくに7月2日の上道斐太都(かみつみちのひだつ)の密告によって,仲麻呂は機先を制して一党を逮捕した。すぐさま訊問が行われ,黄文(きぶみ)王,道祖王,大伴古麻呂,小野東人,多治比犢養(たじひのこうしかい),賀茂角足らの中心人物は拷問によって杖下に死し,安宿(あすかべ)王,大伴古慈斐(こじひ)その他多数が流罪に処された。奈良麻呂の消息は《続日本紀》にはみえないが,やはり殺されたのであろう。また,太政官において仲麻呂の上席にあった仲麻呂の兄右大臣豊成も,大宰員外帥に左遷された。この事件によって反藤原氏,反仲麻呂勢力は一網打尽にされ,仲麻呂の独裁的権力が確立した。
執筆者:栄原 永遠男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報